新潟県の子どもにはなぜむし歯が少ないか

『甘いものを食べても、むし歯は撲滅できる』

別冊 宝島285号 『常識破りの健康読本』1996年12月5日発行

小林清吾(当時:新潟大学助教授・予防歯学)
田浦勝彦(東北大学講師・予防歯学)

監修・構成 平澤正夫(ジャーナリスト)

主要先進国では、むし歯はすでに撲滅されつつある。
なぜ日本だけがむし歯を退治できないのか?
新潟県でその威力が証明されたフッ素の使用を阻んでいるのは、
「予防」の観点がまったく欠けた世界的にも珍しい日本歯学界の体質以外のなにものでもない!
フッ素が日本のむし歯地獄を救う!

(本文)

むし歯は憂鬱な病気である。直接的に命を脅かすことはないが、ずきずき、きりきり、あるいは冷たいものがしみて痛む。本人が苦しむだけではない。たとえば子育てをしている親なら、誰もが幼児の歯痛に悩まされもする。

 たいていの場合、歯医者に行けば治る。しかし、そうとわかっていても、歯を削られるときのなんともいえない不快感や、もしかしたら飛び上がるほどの痛みを感じやしないかと、治療台の上で身の縮む思いをしたことのある人も多いはずだ。むし歯からはなんとか“無罪放免”されたいものだと、誰もが願っているに違いない。

◎人類はむし歯の苦痛から解放される!

 日本を除く世界の主要先進国では、まず小児からむし歯はすでに過去の病気になろうとしている。

 たとえばニュージーランドでは、1977年に永久歯にむし歯のない12歳児はたった2%しかいなかった。ところが15年後の92年には、なんとその比率は47%にまで上昇した。

 このようにむし歯は急速に減っており、予防効果の上がってきた国ぐにでは国連のWHO(世界保健機関)の2000年の歯科保健目標を変更せざるをえなくなったほどである。81年に立てた目標は、12歳児の平均永久歯むし歯数は3本だった。それが90年代になって、むし歯予防先進国ではわずか1本に修正されたのである。この調子でいくと、21世紀のある時期に、「人類はむし歯の苦痛から解放された」と、WHOが勝利宣言を発表するのではないだろうか。ついしばらく前に天然痘を撲滅させたのに続く、医学の輝かしい達成成果として・・・。

 これは決しで夢でもなく、世迷いごとでもない。12歳児の永久歯むし歯数を国別にみると、オーストラリア1.1本(93年)、ニュージーランド1.4本(92年)、フィンランド1.2本(92年)である。国際比較をするとき、常に気になるのが米国の状況だが、データがやや古いながらも86〜87年で1.79本。しかし米国では、その後も減少傾向をたどっていることがわかっている。したがって、ここに挙げた諸国はおしなべて修正したWHO目標に近づきつつあるわけだ。

 では日本はどうか。12歳児の永久歯むし歯数は、93年で3.64本だった(ただし、WHOの国際比較調査では94年で5.3本)。過去にさかのぼった数字は、57年2.80本、63年4.01本、69年4.57本、75年5.43本、81年5.44本、87年4.93本となっている。ピーク時よりも下がってきているのはご同慶のいたりだが、81年に定められたWHOの目標値である3本に近づいたと思ったのもつかのま、むし歯予防先進国であるオーストラリア、ニュージーランド、フィンランドの三国が、93〜95年にかけて独自にたったの1本へとハードルを上げたので、その分だけまたさらにむし歯後進国へと突きはなされてしまっている。

 とにかく、予防先進国におけるむし歯減少の実績は目をみはるばかりである。たとえばノルウェー。この国の12歳児の永久歯むし歯救は、日本が4本台だった67年には、なんと10本もあった。しかし、その後は急激に減り、約20年後の88年にはおよそ四分の一の2.7本になっている。

 89年にWHOが行なった先進国のむし歯調査でも、12歳児の永久歯むし歯数は日本を除くすべての国が、グラフで見るといっせいに右肩下がりの減少傾向にある。日本の場合、こと経済指標に関しては何もかも世界の先陣をきってきたくせに、むし歯数のグラフだけはピーンと水平を維持したままという特異な現象を示している。

 昨年10月、第103回日本歯科保存学会が大阪で開かれた際、ワシントン大学歯学部副学部長のロイ・C・ページ博士が特別講演を行なって、「われわれは西暦2000年に近づきつつあるが、二大口腔疾患であるむし歯と歯周病(歯槽膿漏など)を駆逐するという目標をはば達成した」との考えを表明した。

 ページ博士の特別講演は、日本の歯科医にとって、大変耳の痛い内容でなければならなかったはずである。

◎実証されたフッ素のむし歯抑制効果

 かつて93年から94年までアメリカの国立歯学研究所(NIDR)で研究に従事したが、このときしばしばアメリカの研究者たちからこう問いかけられた。

「日本は経済的に豊かで、科学技術や教育のレベルが高い国なのに、どうしてむし歯が多いのか?」
 これに対して、「フッ素を控え目にしか使っていないからだろう」と答えると、質問攻めにあった。
「どうしてフッ素を勧めないのか?」と。

 こうなると、もう答えに窮するばかりである。なにしろ欧米では、フッ素の利用がむし歯予防の常識になっている。利用法はいろいろあるが、対象をいちばん包括的に捉えかつむし歯予防効果が高いのは、水道水へのフッ素混入であり、すでにアメリカでは全人口の56%(給水人口の62%)がフッ素含有の水道水を使っている.日本では水道水のフッ素化はまったくゼロである。

 フッ素の効果については、ページ博士も特別講演において50年代以降の近代科学の業績をふりかえり、「歯科学研究でもっともすぐれた成果は、フッ素のむし歯抑制効果の発見であろう」と述べている。

 フッ素に背を向けている日本の現実を、欧米の研究者に理解させる方法が一つだけある。「過去に、日本は水俣病をはじめ、さまざまな公害や薬害を経験してきた。だから、フッ素の利用と聞いたとき、過敏反応しやすいのだ」と説明すればよいのである。

 しかし外国の理解は得られるとしても、日本のむし歯地獄は、こんな説明をいくらしたところでちっとも改善されない。

 あまり知られていないが、水道水フッ素化には、約百年(前半五十年は調査研究、後半五十年は予防応用)の歴史がある。1901年、フレデリツク・マッケイというアメリカの若い歯科医が、コロラド州のコロラドスプリングスに歯科医院を開いた。やがて住民の多くがチョコレート色の歯をしているのに気づいたマッケイは、調査を開始する。その結果、この現象は“コロラド褐色斑“の名で知られるようになる。

 研究を進めて十数年後、マッケイは“コロラド褐色斑“の歯がむし歯になりにくいことを発見、住民からの示唆もあって、この地域の水が歯の斑点に関係があるのではないかと考えた。その後、彼はアルミニウム精錬工場の技師が助手に水を分析させ、高濃度のフッ素が含有されていると結論づけたことを知った。

 マッケイは、飲料水中のフッ素がイオン濃度で1ppmまでなら“コロラド褐色斑“にならないことをつきとめる。そしてさらに、もっと重大なヒントがひらめいた。「それなら、安全なレベルで水道水にフッ素を添加したら、むし歯を予防できるのではないか」と。

 この仮説は、ミシガン州グランドラピッドで検証された。そして1945年、ついに国の公衆衛生局や州の衛生局が徹底的に議論したうえで、飲料水のフッ素化にふみきるのである。その後59年になると、子どもの平均むし歯数が56%も減っていることがわかった。こうして多数の市や町が、グランドラピッドのあとに続いた。そして他の諸国にもしだいに広がり、オーストラリア、ニュージーランド、香港、シンガポール、アイルランド、コロンビアなどが飲料水のフッ素化を導入することになる。

 ヨーロッパ諸国は、水道水フッ素化をほとんど実施しでいないが、それは水道水フッ素化以外の方法でフッ素を利用しているからである。ヨーロッパの場合、フッ素を含んだ水で口をすすぐフッ素洗口、歯科医院などで行なうフッ素の歯への塗布、フッ素入りの歯みがき剤の使用、フッ素入り錠剤の服用など、国情に応じて使いわけているのが実状である。

 日本の場合、薬局に行けばわかるように、たしかにフッ素入り歯みがき剤を売っている。しかしながら、その普及率は46%にすぎない。これに対してヨーロッパ諸国は軒なみ90%を超え、98%や99%の国もめずらしくない。日本では、歯みがき剤メーカー最大手のライオンが歯科医院向けにフッ素入りの商品を近々発売するらしいが、それでもシェアは70%程度にしかなるまい。彼我の差は依然として大きい。

 フッ素塗布は、日本の歯科医でもやってくれる。しかし、定期的に継続実施されることが少ないので効果的でないし、やってくれないところさえある。おしなべて日本は、フッ素によるむし歯予防が大変遅れている。外国の輝かしい実績をみるにつけ、日本の歯科医療にも一日も早く予防医学が普及することを望まずにはいられない。

日本の歯科医療は、いまだに「ドリル・フィル・ビル」

 毎年6月4日を中心に、むし歯予防キャンペーンがはられるが、かけ声だけに終わっているのではないかという気がする。

 日本の歯科学には、「治療重視、予防軽視」の伝統が根づよい。大学のカリキュラムを見ても、六年間の教育課程のうち、予防歯科の講義は全体の三%だが、総入れ歯のつくり方を教えるのに20%を費やし、学部三年のときに七カ月間もかける。アンバランスと言わざるをえない。

 周知のように、実際に入れ歯をつくるのは歯科技工士である。たしかに、ずっと昔は歯科医がつくっていた。今も治療の全体を把握し、歯科技工士とのよい協力関係のため、歯科医もつくり方を知っていなければならないのだが、自分で入れ歯をつくることはまれである。現実には、歯科医は歯科技工作業を歯科技工士にゆだね、患者を診ることに専念しなければならないからである。

 英語では、語呂合わせ的に「ドリル・フィル・ビル (削って、つめて、金を請求する)と、歯科医のことを言ったものだが、今やこの言葉は外国では死語になりつつある。

 東北大学予防歯科の坂本征三郎教授は、ハーバード大学で二十二年間歯科学の研究を積み、五年前に現職に就任した。坂本氏は、日米の歯科医療の違いを次のように言う。「むし歯は、世界の常識では罹らないようにする病気なんだが、日本では罹ってから治療する病気になっている」

 坂本教授がいくら口を酸っぱくしてこのように言っても、所詮アメリカ帰りの言うことではないかと、日本の歯科医は耳を貸さない。そのくせ、日本のむし歯を外国なみに減らすことはできないでいる。その最大の原因は、フッ素を積極的に利用しないことにあると言っていい。

 では、なぜそうしないのか.それには、さきはど引き合いに出した日本人の心理的フッ素過敏症よりも、もっと根本的な問題がある。

 日本の歯科医療は予防を前提とした診療体系になっていない。一般には人びとは歯や口腔内のトラブルがあるときにのみ歯科医院に行く。定期健診と予防処置のためだけで歯科医院を訪れる例は極めて少ない。

それに、日本の健康保険制度は原則的に病気に対する保険であり、予防診療を行なっても、歯科医に対する見返りは労働量と対応していない。そして蔓延傾向にある歯科疾患に対しては、ことさら歯科医師の数を増やす方策で対応してきた。歯科医の人口10万人に対する比率は、70年には36.5人、80年に45.8人、そして90年には59.9人になり、二十年で1.7倍近くも大きくなった。歯科医不足のころは、押しよせる患者の大群に対処するために、片っぱしから抜歯するケースが多かったが、今では需給の事情が逆転してしまっている。相対的に少なくなった患者から、細く長く治療費を取るために、歯科医はほんのわずかのむし歯でも治療する。

 歯料医院へ行って、むし歯1本の処置を受けると、健保医療の点数(1点10円)は、初診料175点、研磨14点、むし歯病巣の除去と充填形態の形成120点、ラバー(無菌的歯科治療のため歯を隔離するのに用いるゴム・シート)10点、つめるレジンの材料費63点、つめるためのエッチング(歯につめ物をする前準備として、つめ物と歯との接着性を高めるために行なう酸処理法)40点、合計422点、つまり4220円の治療費となる。処置の本数が増えれば、その本数分だけ増額になる。

 また、削ってつめた場合、患部の根本的治療にならないことが多く、むし歯は拡大・深化するし、キャンデーや餅菓子を食べる際、つめ物がしばしばポロリと取れる。それやこれやで、患者は同じ歯の治療を何度も受け、そのつど治療費がかさむことになる。
 こうして日本の歯科医寮では今もなお、「ドリル・フィル・ビル」が主流になっているのである。

◎水道水フッ素化のコストは、一人分わずか年間五十セント

フッ素によるむし歯予防には、次のようにいろいろな方法がある。水道水フッ素化、フッ素洗口、フッ素塗布、フッ素入り歯みがき剤の利用、そしてフッ素錠剤服用である。それぞれの方法には、利用の難易度、予防効果など一長一短が感じられる。

 しかし利用者にとつていちばん楽なのは、なんといっても水道水のフッ素化である。水道水を飲んでいれば、自然にフッ素が体内に入るからだ.すでに述べたように、これはアメリカで盛んに行なわれている方法で、50大都市のうち、42都市が導入している。

 この方法は、じつは日本でも採用されたことがある。京都市の山科区(52〜65年)、三重県朝日町(67〜71年)、沖縄(57〜72年)の三カ所だが、いずれもやめて しまった。山科の場合は原生省のモデル研究事業が終了したからであり、朝日町は人口増のため水道設備を拡張・新設しなければならなくなり、沖縄は日本への復帰という理由からだった。

 水道水フッ素化の予防効果は40ないし60%と高く、費用の点でも大都市であれば一人当たりの年間コストは50セントと算出され、極めて安い。ここでいう予防効果とは、他のすべての要因が同じという条件である予防法を用いた場合、その予防法を用いなかった場合に比べ、むし歯数がどれだけ減ったかを意味する。

 フッ素洗口は、後述するように日本でも新潟県など一部ですでに実施されている。ただし、フッ化ナトリウムの溶液を水に混ぜでうがいをするので、子どもが実施するとしても4歳児以上ですすめられている。予防効果は40〜60%.週五回法と週一回法があり、一回法のほうが溶液が濃い。

 フッ素塗布は、年に数回、リン酸酸性フッ化ナトリウム溶液を歯の表面に塗布する方法で、保健所や歯科医院が個人的な希望に応じるものである。学校や幼稚園で集団的に行なうこともある。予防効果は10〜30%。

 各家庭で自主的に実行できる方法として、フッ素入り歯みがき剤の使用がある。前述したように、日本におけるフッ素入り歯みがき剤の比率は46%だから、入手は困難ではない。その予防効果は15〜30%である。

 以上述べてきた方法のうち、水道水フッ素化は、体内に摂取されたフッ素が消化器から吸収されて歯の形成時に全身的作用として、また生えてからも唾液や歯垢を介した局所的作用として、歯質を強化するという総合的応用法である。それに対し、フッ素洗口、フッ素塗布、フッ素入り歯みがき剤の使用は、手法の違いはあっても、歯の表面にフッ素を付着させるのだから、局所的応用法と言われる。

 日本で行なわれていない総合的応用法としてもう一つ、フッ素入り錠剤の服用がある。この方法は、口中に入れた錠剤をかみくだくならば、局所的応用法をも兼ねられる。また、その予防効果も高く、30〜80%に達する。

 フッ素がいかにして歯を強くするかのメカニズムは、だいたいわかっている。

 むし歯は、歯のいちばん外側のエナメル質の部分がやられることから始まる。人間が甘いものやでんぷん質のものを食べると、食べかすが歯のくぼみやすき間に残る。その歯垢の中のむし歯誘発性細菌から出る酵素で糖やでんぷんが分解される。やがで歯垢の中の別の細菌の出す酵素の働きで、糖やでんぶんから乳酸がつくられる。そのためしだいに酸濃度が高くなって、エナメル質中のカルシウムやリン酸塩といったミネラルを溶かす。これを脱灰という。

 フッ素には、この脱灰をもとに戻す再石灰化作用を促進させる働きがある。またフッ素があると、ばらばらになっていたカルシウムが再結晶しやすい。フッ素が結晶中でどのような役割を果たしているかも解明されてきた。このメカニズムはボイド理論と呼ばれ、66年にアメリカのジョージア研究所の研究者ヤングが発表した。また、フッ素の再石灰化反応は、唾液との共同作業であることが立証されている。

◎日本の歯科医かフッ素を嫌う理由

 日本の歯科医は、探針という極細の針で歯の表面や歯間をつついて虫歯を“発見”し、“治療”して「ドリル・フィル・ビル」にもっていく。

 このような体質の歯科医療の世界に、フッ素によるむし歯予防が導入されたら、「ドリル・フィル・ビル」がうまくいかない。日本の国民医療費は、94年に25兆円を突破した。その約一割の二兆五千億円が歯科医療費とみられ、七万七千人の歯科医師、四万四千人の歯科衛生士、三万三千人の歯科技工士の生活の大部分をまかなっている。現行制度のもとでフッ素利用が定着して成果を上げたら、歯科の患者が激減し、ひらたく言えば歯科医療関係者はメシの食い上げに追い込まれるのでは、といった心配の念に駆られる。実際には予防の先進国では歯科サービスの多様化が可能になり、発展的に歯科医療が進められている。いずれにしても、患者にしてみれば、むし歯の苦痛から解放されてこれほど幸せなことはないであろう。

 歯科医のなりわいと住民の健康のいずれを優先すべきであろうか。

◎フッ素洗口でめざましい成果を上げた新潟県

  日本でも住民の健康を優先し選択した一つの事例がある。

 新潟県では、74年に学校単位で生徒にフッ素洗口を開始し、めざましい成果を上げている。

そのトップをきったのが弥彦小学校である。

 またもっとも早くから地域の組織活動を背景に総合的なむし歯予防運動に取り組んだのは牧村である。県の南西部にあり、上越市と長野県飯山市にはさまれた人口3900人の農山村で、73年に歯科開業医が診療をとりやめ、無歯科医村になってしまった。村当局が新潟大学予防歯科にお百度を踏み、翌年四月から歯科医が派遣され、主としで学童を対象に週二日の診療が実現し、村として「むし歯は子どもの病気である」「治療と同時に予防も行なうべきである」という予防歯科活動の原則を受け入れた。

 牧村には、保育園五園(現在は三園)、小学校六校(現在は二校)、中学校二校(現在は一校)、高校の分校一校(現在はなし)があった。村は各学校区単位で説明会を開催し、むし歯予防の重要性を住民に訴えた。予防歯科からやって来た歯科医は、歯質強化のためにフッ素洗口が必要であると説明。74年6月から、すべての保育園、小・中学校で実施が始まった。75年1月には、PTAや婦人会が中心になって「牧村子供の歯を守る会」が生まれ、村ぐるみでフッ素洗口を支援する体制ができる。それ以後、フッ素洗口は22年もの間続いている。

 その成果は驚くべきもので、74年の時点で、12歳児の永久歯むし歯数は平均4.1本だったのが、78年に3本に減り、95年にはじつに1本弱になっている。

 県下の市町村は、牧村に続けとばかりに、ぞくぞくとフッ素洗口の実施にふみきった。95年の実績を示すと、全小学校で六年以上実施の市町村は56(Aグループ)、一部小学校または六年未満実施の市町村が31(Bグループ)、未実施の市町村は25(Cグループ)である。

 実施効果はデータに如実に表われている。十二歳児の永久歯むし歯数が平均一本以下の市町村は4だが、その内訳は牧村などのAグループが3、Bグループが1であった。Cグループはゼロである。逆にむし歯の多いほうを見ると、3本以上の市町村はAグループが10、Bグループが14に対してCグループは17にのばる。

◎フッ素によるむし歯の減少で歯科医療費は五分の一以下に!

 フッ素洗口のむし歯予防効果は、洗口をやめた後も持続することが知られている。

 牧村で、88年に新成人の歯科健診を行ない、むし歯の数を調べた。この年齢の若者は、小学校一年からフッ素洗口をしてきた世代である。むし歯数は平均5.5本で、抜けてなくなった歯は0本だった.87年における二十歳の健診での全国のむし歯数は平均10.6本で、喪失歯が0.38本である。牧村のデータと全国平均の大きな差は、フッ素洗口のたまものに違いないと言っていいだろう。

 ちなみにWHOは、フッ素洗口は六歳児から行なうのがよいとしている。だが新潟県では、より年少の幼稚園児や保育園児にも行なっている。フッ素の効果は乳歯に対しても大きく、また五歳児にはもう永久歯が生え始めるからである。

 前述したように、米軍占領時代の沖縄では、フッ素洗口ではなく水道水フッ素化が57年から71年まで実施された。フッ素化中断後の87年に、われわれ調査班が二十歳の看護学校生を対象にその影響を調べたが、むし歯の数では有意差がなかった。しかし、抜歯をしたり、冠をかぶせた重症むし歯の数は、フッ素化を経験しない学生に比べて8割も少なかったという報告もある。

 むし歯が減ってくると、歯科医療費が減るのは当然で、その例証は牧村にもはっきりとみてとることができる。あくまでも見積り額だが、12歳児一人当たりの永久歯むし歯治療費の平均金額は、74年の15811円から88年の2941円へと、五分の一以下に減った。

 これでは、たしかに歯科医の生活は成り立たない。ただし、牧村の歯科診寮の総収入は増えつつある。これは大人、とくに老人の歯の治療にも手が行き届くようになり、その分のサービスが急増しているからである。したがって歯科医は、全国的に人口の高齢化が進んでいる日本において、経済的な理由でフッ素の利用を敵視する必要はないのではないだろうか。

◎中高年に多い歯槽膿漏にもフッ素が効く!

 むし歯もさることながら、中高年以上の世代にとっては、歯周病、いわゆる歯槽膿漏のほうが深刻で切実な問題である。

 幸いにも、フッ素は歯槽膿漏にも有効と思われる。

 歯と歯ぐきの間にポケットと言われるすき間ができ、そこに細菌が侵入して歯ぐきに灸症を起こす。その結果、歯を支えている骨が溶けて歯ぐきがプヨプヨになり、ある日突然歯がスボッと抜けてしまう病気が歯槽膿漏である。歯槽膿漏の人が、フッ素を飲んだり歯にフッ素をつけたりすると、ポケットに巣くう細菌の活性が低下する。したがって病気の進行が抑制されることになる。

 また、年をとるにつれて歯ぐきが下がってきて歯の根の部分が露出する.露出した部分は堅牢なエナメル質には覆われていない。セメント質という膜に覆われているのだが、薄くてもろいので、簡単に摩耗してしまう。したがって、歯の内側の象牙質の中にある象牙質細管が露出し、歯の神経を刺激しやすくなる。

 疲れたとき、あるいは寒暖の差が激しいときに歯が痛むのはそのせいである。この現象を象牙質知覚過敏という。しかしフッ素を利用すると、露出した象牙質細管の再石灰化が進み、修復される。高齢者を悩ませる歯痛の大部分が象牙質知覚過敏だから、フッ素は子どものむし歯だけでなく、高齢者にも福音をもたらすのである。                                            

 老いも若きも、フッ素の恩恵をこうむるとなれば、住民全体にフッ素を与える水道水フッ素化の利用価値の高さは、自ずと明らかであろう。

◎フッ素への日本人の無関心ぶりは世界の不思議

 新潟県のフッ素洗口を成功に導いた原動力は、県歯科医師会の全面的なバックアップであった。会長自らが立ち上がり、「子供の歯を守る会」の代表になったのである。歯科校医のネットワークを考えるだけでも、県歯科医師会が保健行政や教育行政にかなり大きい力を持っていることがわかる。

「子供の歯を守る会」がなかったならば、新潟県におけるフッ素洗口の普及は実現しなかったに違いない。

 弥彦小学校や牧村には、視察や調査の来訪者が全国から頻繁にやって来る。しかし、そのわりにフッ素洗口の実施にふみきる自治体数はのびていない.94年3月現在の集計では、全国35都道府県の1398施設(学校、幼稚園、保育所など)で、17万3257人に対してフッ素洗口が実施されている。

 内訳をみると新潟県がダントツで、そのうちの654施設、69174人を占めている。一方、肝心の東京都はたった1方所、60人の幼稚園児に行なっているにすぎないし、大阪に至ってはまったくゼロである。新潟県内でも、50万都市で県庁所在地でもある新潟市では、フッ素洗口を行なう小学校は六分の一にとどまる。中都市や大都市に立ちはだかる壁は、結局歯科医の意識や経済問題、歯科学のあり方やその理念の反映にはかならない。

 牧村のような、歯科医がたった一人しかいないところであれば、その歯科医が決断すれば住民はついてくる。新潟県の場合、フッ素洗口をさせたくない親の子どもは、ただの水で洗口する。そういう子に対していじめが発生しないかとの声もあるが、まだそういった例の報告はない。フッ素洗口の実施に当たっては、あくまで住民に選択の余地を残しながら実施しているのが現状である。

 おおぜいの歯科医がいる市町村では、歯科医のコンセンサスをとりつけるのはたしかに難しい。「自分がやるべきこととは思わない」と、無関心、非協力、反対の意思表示をする歯科医は、新潟県でもめずらしくはない。県の歯科医師会長が「子供の歯を守る会」の会長をしていても、個々の会員である歯科医にフッ素普及運動を強制することはもちろんできないのである。

 このような状態にあるため、新潟県の「子供の歯を守る会」でも水道水フッ素化を会の運動目標に掲げてはいるものの、残念なことに当面の課題からは外している。

 アメリカは、一つのコミュニティ全体に水道水フッ素化が普及している代表的な国である。学校単位でのフッ素洗口法も70?80年代までは盛んであったが、近年その普及が鈍ってきた.水道水フッ素化が行なわれている地区では、フッ素洗口法の有用性が相対的に低下してきたからである。

長期的に考えた場合、やはり最優先されるフッ素の利用法は水道水フッ素化である。

 このように世界的にフッ素の効用が認められている現在、日本でもより積極的に水道水フッ素化に取り組むべきではないだろうか。

 フッ素に対する日本人の無関心ぶりを外国で話すと、「いったいどうして!」と、不思議がられる。

 日本では予防歯科の教授でさえ、むし歯を本当に予防できると思っている人は少ないのではないかと思ってしまうほどだ。また若い歯科医ほど「水道水フッ素化などできるわけがない」という思いが強い。専門家でさえこの状態なのであるから、一般の人びとにフッ素の知識がないのは当然である。問題意識の高い歯科医が住民にフッ素のことを知らせ、まずは集団的にフッ素洗口を促してもらうようにするしかない。フッ素洗口こそ、水道水フッ素化に先立って行なわれるべきむし歯後進国・日本での次善策にほかならない。

◎甘いものを食べなからどんどんむし歯が減らせる!

砂糖はむし歯に悪いと誰もが思っている。たとえば、ポテトチップをパリパリかみ、その後でキャラメルをクチヤクチャ食べるのは最悪のパターンの一つである。ジャガイモのでんぷんが歯に付着し、残ってじわじゎと歯を冒そうとするところへキャラメルの糖分が作用して歯を急速に溶かす。つまり、緩急両用で歯を傷めるからだ。

 しかし、十二歳児の永久歯むし歯が平均1.1本のオーストラリアでは、一人当たりの年間砂糖消費量は40キロである.この数字に比べれば、むし歯本数が3.64本と格段に多い日本のそれは、なんと半分の19キロにすぎない。オーストラリアが子どもにかぎって“禁糖”に成功しているとは考えられない。この矛盾を解くキーは、フッ素の再石灰化促進作用である。オーストラリアでは水道水フッ素化とフッ素人り歯みがき剤使用の励行、さらにはフッ素錠剤服用に力を入れているが、両国間の数字の差は、その成果に明確に現われている。

 オーストラリアの例をみるかぎり、フッ素の砂糖に対する勝利宣言は確固たるものと言ってよいであろう。日本では「どんどん食べてどんどん痩せる」というけっこうなダイエット法が紹介されることはあるが、それが統計的あるいは疫学的な検証にたえうるのかどうかは疑問であることが多い。

しかし、甘いものを食べるのを控えることがなかなか実現できなくても、むし歯をどんどん減らすことは可能なのである。なぜ日本人はフッ素に飛びつかないのだろう。

 驚いたことに、それでいて日本のほうがオ?ストラリアよりも歯科医が多い.92年現在、人口十万人当たりの歯科医の数は、日本の62人に対してオーストラリアは43人にすぎない。歯科医が少ないのだから、医療費もあまりかからない。オーストラリアの歯科医療費は、国民医療費全体の5%。対する日本は、8万人近い歯科医がひしめき、歯科医療費の比率は10%である。

 歯科医療費を半分に抑え、人びとは甘いものを楽しみ(ただし小児の間食指導や乳児の哺乳瓶に甘いものを入れないようにとの指導は強調されている)、それでいてむし歯の予防率は世界のトップクラスのオーストラリア。うらやましいかぎりの一石三鳥である。日本はすべてがその逆だ。コストがかかるだけではない。むし歯の本数が世界で最悪に近い。それでいて、フッ素の利用には背を向けている。

◎対症療法的な日本の歯学教育のツケ

 いったい日本の歯科医療は、どこでどう狂ったのだろうか。

 70年代の初め、歯科医不足の対策がとられ、歯科大学や歯学部が新増設された。しかしながら、歯学教育の質の改善は行なわれなかった。この時点で、たんなる対症療法的対策ではなく、予防を中心にした対策を講ずべきだったのだ。予防歯科学をやっているではないかとの意見はあろうが、フッ素抜きでは、仏つくつて魂入れずであると言えば言いすぎだろうか。

 新増設がいきすぎて、手のひらを返すように朝令暮改、今度は95年をめどに歯科大学生の20%削減が打ち出された。達成の時期が来たわけだが、またしてもボタンのかけちがいである。日本列島の外ではすでにむし歯予防の発想が出そろい、はっきりとした予防対策の成果が怒涛の勢いで結実しているのに、我関せずである。オーストラリアの爪の垢をせんじて飲むような気概はまったく見られない。

 あらゆる分野での外圧による“革命”が、今世妃末から来世紀初頭における日本改造の定番になろうとしている。しかし、むし歯に罹ってから治療するのでなく、むし歯を予防するというこの“革命”には、すでに充分すぎるはどの外圧がかかっているのに、いまだ日本の歯学会はびくともしない。

日本の歯科医は容易にフッ素を寄せつけようとしない。

 歯の疾病で深く思い悩む人びとの願いは、今なお水道水フッ素化の動きに届かない。このまま私たちは、予防効果15?30%のフッ素入り歯みがき剤でお茶をにごすしかないのだろうか。日本の歯学界は、フッ素によって世界からむし歯が撲滅される日まで、ひたすら静観を決め込むつもりなのであろうか。