歯科ペンクラブ誌 「私と科学」 通巻500号記念 (2003年6月)

「私と科学」 科学を目指す者へ  神奈川歯科大学 学長  飯塚 喜一

 私の専門領域は口腔衛生・公衆衛生分野であった。特定・不特定たるとを問わず、大勢の人たちを対象として活動をするのが公衆衛生なので、対人コミュニケーションの面が重要となり、この面での予期せぬ困難や障害、失敗などが結構ある。決して軽視できないところである。
 公衆衛生の学問分野で最も基本的な手法として「疫学」がある。ここで疫学について詳しく述べる余裕はないが、疫学はあらゆる種類の健康障害を予防するための具体的な手段を提供する学問(科学)として世界的に重視されている領域である。
 特に生活習慣病(成人病)や、いわゆる公害病などは、症状が表面に現れてからでは治療が困難となりやすいので、どうしても予防に重点を置かざるを得ない。従って、疫学に対する社会的なニーズは相当高くなっている。
 しかし、専門の疫学者もそう多くないので、特にわが国の歯科界では疫学的視点で物を見ることがまだまだ不足気味である。かって私の同僚だった生化学者で、「疫学なんて信用しない。あんなものは科学ではない」と言いきった人もいるくらいなのだ。
 また大勢の人を観察しさえすれば、それが直ちに疫学になるわけではない。そこには観察のルールが必要となる。これについてもここでは述べる余裕がない。ただ、疫学的手法を一口で表現すれば、予防対策を講じる際に「あらゆるpossibility(可能性)を考えて、その中の最も、或いは可能な限りprobability(確率ー蓋然性)の高いものを採る」ということになる。例えば、歯ブラシはこれを使わなければダメ、歯の磨き方はこの方法でなければダメ・・・というのは、少なくても疫学的視点で言っているのではないということになる。
 歯科領域で(というより医学領域を含めて)最も典型的な疫学手法によって確立された虫歯予防のための公衆衛生的手段はフッ化物応用である。それにもかかわらず、ことに日本ではこの方法がなかなかふきゅうしない。
 熱心な開業歯科医師を中心としたフッ化物応用の推進を図る団体があり、精力的に活動をしているが、このような活動に対して必ず起こってくるのが「反対運動」である。これらの反対運動には共通した特徴があり、ここで詳しく紹介する余裕はないが、この人たちは一言で言えば「世間を惑わす人たち」と言ってしまっていいだろう。
 これに対する社会科学的人間科学的分析が重要なのだが、わが国ではこの面の研究がまだ少ない。これらの反対グループに歯科医師や医師などのいわゆる「専門家」と称する人たちがいるのも特徴といえよう。
 学者や専門家も含め、一般の人たちの中には、個人的な好き嫌いで反対意見を述べる人がいる。さらには、量の概念を抜きにして健康に害だと主張したりする。そんなことを言っていたら何も食べたり飲んだりできなくなってしまう。個人的ナ好き嫌いは自由である。しかし、内外の多くの専門機関・団体が認めて推奨している事柄については、ただケチをつけるのではなく、地道な学問的背景に立って発言をしてほしいものである。自分の言動に責任を持ってほしいのだ。自分を売り込むための、または売り出すための発言は見苦しいものだが、えてしてこういうものに興味を示すマスコミも結構あり、真剣に予防活動に取り組んでいるグループをしばしば困らせている。
 かって、ある地方の歯科医師会のお偉方で「フッ化物応用に夢中になるのは困る。虫歯が減ったらどうするんだ」と言った人がいる。こうなるともはや論外である。
 わが国の歯科界がもっとまともな科学的社会であると信じたい。