防衛省訪問ツアー参加   2019(令和元)年10月7日(月) 山本武夫

 亡き父の卒業した、旧陸軍士官学校は、市ヶ谷にありました。父が3歳で亡くなっているので、父のことは、祖母や母、あるいは父の姉弟妹から、聞くだけでしたが、あまり詳しくはわかりませんでした。ましてや、戦争の事や戦後のことも、父が昭和30年に亡くなり、祖父は昭和37年、祖母も昭和57年に亡くなっており、ほとんど尋ねる宛がありませんでした。
 実家には、古いスナップ写真が何十枚かあり、座敷には軍服の遺影と陸軍士官学校の卒業証書だけは、大事に飾ってあります。戦後は、将校は公職追放など、辛い時期があり、祖母からは、あんまり、戦争後の話は聞けませんでした。小生の高校時代に、三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊東方総監室での割腹自殺がニュースとなり、そこが元陸軍士官学校のあったことを知りました。それから、大学もお茶の水に入学していたら、もっとは調べられたのかもしれませんが、地方の大学を出て、ほとんど市ヶ谷には縁がありませんでした。そんな中で、母は、陸軍士官学校54期生の同期生世話型の方とのやり取りをしていたようでした。あるときに、「忠魂」という、同級生の戦没された記録書が送られてきたと見せてくれました。そうだったのかと、その本を読ませてもらいました。しかしながら、戦没者の方の記録は大変詳しく(同級生の方の思い出とか、所属した部隊での話とか)出ていましたが、復員して10年後に病没した父のような同級生の記録はほとんどなく、父の場合も、1-2行で、現在の住所と残された家族(母の名前)だけでした。
 開業して、何年かして、隣に内科で開業されたY先生のお父様がやはり隣の市で内科を開業されておられ、何回かご挨拶する中で、父のことに話が及び、その先生も陸軍士官学校の卒業とお聞きしましたら、陸軍士官学校の当時のビデオを見せて頂きました。学校でこんなことをしていたのです、と教えて頂いて、ようやく、少しは陸軍士官学校というものに知識を得ることができました。今回のツアーには、父の遺影(小さな写真ですが)を持参しました。80数年ぶりに、市ヶ谷の土を踏みました。さぞ、父も満足していると思います。
 その後、こちらも、仕事や家族のことで時間がなく、最近になってようやく余裕も出てきました。数年前に、たまたま歯科医師会関係の会合で市ヶ谷に行ったときに、防衛省(当時は、防衛庁?)の正門で、かくかくしかじかで、父のことを調べたくて、と尋ねましたら、予約がないと入れません、この次に来られるときに予約を取ってくださいと、言われました。
 今回、たまたま、NPO日本フッ化物むし歯予防協会の会合で、10月6日(日)に鶴見大学でありました。そこへ、昨年の会合が都合悪くなり、今回オブザーバーで参加されませんかという自民党歯科口腔医療勉強会の会合が、10月7日(月)夕方に入り、それでは、午前中の空き時間に、防衛省を訪問したくなりました。たまたま自民党のその会合の座長さんが山田宏参議院議員さんで、防衛省通で歯科関係の会合で配布された資料から、後援会を通じ、秘書の方に、防衛省ツアーの予約を取っていただくことができました。
 7日の午前9時までに、防衛省の正門まで出向き、手続きをして、身分証明をして、入館の許可を頂きました。たまたま、同日個人は私を含め3名でしたが、一緒に団体ツアーで来られたのが、富山の田畑代議士さんの後援会の方たちでした。一緒に回っていましたが、周り中富山弁で、東京にいる気がしませんでした(笑)
 ツアーは、まずは市ヶ谷記念館から入り、大講堂で、「市ヶ谷台の歩み」というビデオを鑑賞、陸軍士官学校の大講堂を復元した話を聞きました。舞台では、玉座の後もありました。ここは、極東国際軍事裁判の法廷でも使用されました。それから2階に上がり、旧陸軍大臣室(戦後、前陸上自衛隊東方総監室)をみて、窓から、三島由紀夫が演説をしたバルコニーをみました。続いて、旧便殿の間(歯科学校時、天皇陛下の休憩所で、戦後は陸上自衛隊幹部学校長室)を見て、それぞれの部屋の写真・遺品等の記録を拝見しました。
 その後は、市ヶ谷記念館前にある、屋外ヘリ展示場をみて、厚生棟の売店により、お土産を購入しました(笑)
 午後からどうしようかと、考えながら、案内をされる防衛省OBの方に、聞いてみましたら、正面の受付で、士官学校の資料を閲覧できる、戦史研究センターがこの市ヶ谷の省内にあるので、見学できるか聞いてみたら如何ですかと教えてくださいました。その方には、案内の合間に父のことを何度もお話ししていましたから、親切にアドバイスを頂きました。いったん、午前中のツアー終了後、正面の受付で、確認を取ってもらいましたら、戦史研究センターに、午後1時に来てください、という事になり、内心では拍手喝采して、お礼を述べました。ただ、その入り口は、この正門の全く正反対の加賀門というところから、入らなければなりません。(正門から、ゆっくり徒歩30分くらいでした)
 午後1時に、加賀門から、入って入館の申し込みをして、受付手続きを済ませ、戦史研究センターに向かいました。途中のロッカーで荷物を一切預け、デジカメ1つをもって、資料室に向かいました。備え付けのPCから、調べたい資料を見つけ、受付で、その内容を話して、相談員の方と調べる内容を打合せさせてもらいました。そこで、見つかったものを閲覧し、もしコピーがしたければ、個人情報の問題ないものは、コピー室に入ってデジカメで撮影、内容の許可が必要で了解されたものについては、コピーが欲しければ、業者の方に申込、後日送ってもらえるのです。父の情報としては、最後の所属した「松本連隊」については、書籍があり、わかっています。それ以外で今回新しく得た情報は、トラック島に派遣された手帳と、後は士官学校の卒業名簿くらいでした。仕方がないので、士官学校の記録本を見て、学校での教育内容等の総説の部分を30ページ余りコピーを依頼しました。次回、来るために予約票を申込ました。予備知識を持ってこないと、確かな情報は求められないことがわかりました。しかし、54期生の「忠魂」や松本連隊のことを書いた「松本連隊の最期」というのは、戦後の帰還された方のどれほどの熱意をもって編集されたか、本当に頭が下がる重いです。それこそ、命を懸けてなされた大事業であると思いました。
 起こった事実を記録として残すというのは、人間の使命と思います。できる限りの真実を後世に伝えることは、本当に大事なことと、痛感しました。    (山本武夫)



  市ヶ谷記念館・・・正面が三島由紀夫の演説したバルコニー

  「市ヶ谷記念館」前にて、ツアー途中にて
父、敏雄の写真とともに、訪問
防衛研究所内にある「戦史研究センター」を訪問


1.市ヶ谷の周辺・・・市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮(多分、父も来たことがあるでしょう)
2.防衛省に入って
3.市ヶ谷記念館(大講堂や、旧陸軍大臣室、旧便殿の間)
4.戦史研究センターを訪問して