フッ素の利用の将来展望


東京歯科大学 衛生学講座教授   
眞木 吉信

日本と世界のう蝕有病状況
 WHOが1995年にまとめた世界の12歳児の一人平均DMF歯数(DMFT指数)と、国際歯科連盟(FDI)が1990年にまとめた年間一人当たりの砂糖消費およびフッ化物配合歯磨剤の市場占有率の一覧を見ると、この時点での日本のう蝕有病状況に対するWHOの評価は5段階の3であり、砂糖消費量は明らかに少ないにもかかわらず、他の先進諸国に比較して2倍から3倍のう蝕有病状況であり、この時期には東欧や中欧諸国と同等のレベルにあった。厚生労働省が昭和32年(1957年)から6年ごとに実施している歯科疾患実態調査の12歳児の一人平均DMF歯数(DMFT指数)の推移を見ると、1960年代後半から70年代をピークに、児童・生徒のう蝕は明らかな減少傾向にあり、1999年の調査では2.44であった。しかしながら、5歳以上の永久歯全体のう蝕(DFT指数)で見ると、1957年の5.06から1999年の9.76まで現在も増え続けているのが現状である。

う蝕予防の後進性
 ヘルスプロモーションが声高に叫ばれる現代でも、このように永久歯のう蝕予防が進展しない理由の第一は、歯磨きが最高の予防手段であると過信していたことであろう。昭和44年(1969年)から平成11年(1999年)までの歯ブラシ使用状況の推移を見ると、歯磨きの習慣は飛躍的な向上を見せ、現在では96%を超える国民が少なくとも1日1回は歯を磨く習慣を持ち、約70%の人々は1日2回以上歯磨きをしている。歯磨きに関しては「100%磨き」とか「パーフェクト・ブラッシング」といった言葉を耳にするが、歯ブラシで歯垢を100%除去することは不可能なことであり、また、歯磨きで歯垢を除去できない小窩裂溝や隣接面からう蝕が好発することは周知の事実である。
 う蝕予防が進展しない理由の第二は、フッ化物応用の普及状況の遅滞が挙げられる。12歳児のDMFTの高低とフッ化物配合歯磨剤の普及率(市場占有率)との間には明らかな関連性が認められる。1991年時点で日本の40%に対してDMFTの低い欧米先進諸国では90%を上回る普及率であり、年間一人当たりの砂糖消費量からも推測できるように、あふれるばかりの甘味食品と飲料が普及した現代の食生活環境に対して、抵抗する宿主(歯)への適切な予防の働きかけが弱かったということになる。この宿主への予防手段の筆頭に挙げられるのがフッ化物応用である。
 わが国においては水道水へのフッ化物添加を始めとした全身的な応用は全く実施されておらず、局所応用もフッ化物配合歯磨剤の普及率が2002年に86%となった他は、フッ化物歯面塗布は42%、フッ化物洗口は5%にも満たない普及率である。ヘルスプロモーションでいう、「健康づくり」のための公共政策の実施や予防環境の整備といった観点からは、フッ化物応用の推進状況は十分とはいえないのが現状である。現在でも世界的に見てまだかなりの高いう蝕の有病状況にあるわが国では、ヘルスプロモーションの観点から歯・口の健康づくり推進のために、地域保健の担当者によるフッ化物応用の正しい情報提供とフッ化物応用を基本とした「歯・口の健康づくりプラン」を実施していく時期に来ていると思われる。

フッ化物応用の推進は社会科学的課題
 リチャード・ドナー監督の慶賀「陰謀のセオリー Conspiracy Theory」(1997)の冒頭で、タクシー運転手役のメル・ギブソンが客に語りかけた。「水に何が入っているのかわかる? フッ素だ。そうフッ素。歯を丈夫にするっていわれちゃいるけどね。あれは嘘っぱち。本当のことを教えようか。意思の力を弱くして、自由で独創的な発想ができなくなるようにするんだ。政府の奴隷にするためさ。」
 フッ化物を利用したう蝕予防は、WHOやCDCなど世界の150もの保健関連団体や政府機関によって推奨され、前述したように、フッ化物応用の盛んな欧米諸国においては明らかなう蝕減少効果をもたらしている。しかしながら、一方ではフッ化物の応用に対して反対の意向を持ち、反対の行動を起こす人またはグループがあり、以下のような主張がなされている。
 a フッ化物のう蝕予防効果はデタラメである。
 b フッ化物は毒物である。
 c 水道水フッ化添加物は一種の強制的集団的投薬であり、個人の選択権の侵害である。
 「『40〜50%もむし歯が減る』 という根拠がどこにあるのか」といったようなフッ化物のう蝕予防効果に対する疑問と批判が何十年も前から根強く存在しているのも事実である。「40〜50%」という数字は応用方法によって異なってくるが、現在ではフッ化物のう蝕予防効果はエビデンスに基づく明白な事実である。
 また、フッ化物の毒性については、特に慢性毒性の観点から、歯のフッ素症、骨硬化症と骨折、発癌性、腎障害、ダウン症など従来から指摘されてきた問題の他に、最近では、酵素、軟組織、内分泌及び脳に対する障害など幾多の問題点が反対派の人々から提起されてきている。これらもドーズレスポンス(Does-Response(量反応))の問題であり、ラボラトリー・レベルの現象から推測して一般化されたものと考えられる。
 特にフッ化物応用の中でも水道水への添加については、現在最も同意が得られにくい手段とされている。これは個人の選択権がない、住民に対する強制的で集団的な予防薬の投薬だという論拠に基づくところから、冒頭の話のように政策的な側面が面白おかしく強調されている場合もある。しかしながら、一方ではフッ化物は単にう蝕予防のための薬剤と考えるだけではなく、健全な歯をつくる栄養素だとする考え方もある。いずれにしても水道水へのフッ化物添加については地域住民の合意形成が必要となり、これは社会科学的な分野の課題である。
 う蝕予防を始めとする歯の健康は、21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)における九つの領域の一つを占め、QOL(生活の質)の維持に向けて、う蝕予防、歯の喪失防止のための具体的な目標達成プロセスにも、フッ化物応用(フッ化物配合歯磨剤の普及)が取り上げられるなど、フッ化物応用の有効性について、社会的にも認識が広まったといえるだろう。
 健康志向の高度に発達した現代においては、健康雑誌やインターネットからの健康情報の選択は一般の人々にとって非常に難しい問題であることから、歯科保健に関しては、歯科医療の専門家であるかかりつけの歯科医師や歯科衛生士による保健医療情報の整理・選択と適切なアドバイスが求められる時代である。