アメリカ歯科医師会ニュースADA News 2003年8月14日記事
Posted Aug. 14, 2003

Dr. Herschel Horowitz, public health dentist and fluoridation advocate, dies

公衆衛生と水道水フロリデーションの唱道者であるハーシェルホロウィッツ博士死去

By Stacie Crozier

メリーランド州ベセスダ発
ハーシェルSホロウィッツ博士は、フッ化物とシーラント研究並びに世界的に歯科保健の水準を高めた水道水フロリデーションの推進に尽力した公衆衛生歯科医であったが、8月10日べセスダの自宅で71年の生涯を閉じました。

「彼は国内に止まることなく国際的にも、歯科保健において偉大なフッ化物の重要性を信奉して熱く説き回りました。」と33年間、妻として苦楽を共にし、自らも国立歯科頭蓋研究所(NIDCR)の教育専門家であるアリスホロウィッツ博士は語りました。また、「彼こそはフッ化物の権化であり、地域歯科保健を推進しようとする保健専門家にとっては唱道者でありました。」

ホロウィッツ博士の名前はフッ化物研究の代名詞であり、26年間にわたり米国公衆衛生局の主任官として活躍しました。40年間以上の経歴の中で、ホロウィッツ博士はフッ化物局所応用であるフッ化物配合歯磨剤、洗口剤、歯面塗布剤ならびにフッ化物全身応用である学校と地域の水道水フロリデーションのう蝕予防効果の研究を継続してきました。

博士は、国内はもとより海外で、精力的に水道水フロリデーションの唱道を行ってきました。このような博士の業績に対して、これまで国際歯科学会(IADR)からH.トレンドリーディーン賞が、アメリカ公衆歯科衛生学会から特別賞が、また、アメリカ公衆衛生学会からの公衆歯科衛生部門のジョンW.ナトソン特別賞が授与されてきました。

「彼とは40年来の付き合いがあり、共に公衆衛生を学んできた」とアーネストニューブルン博士(カリフォルニア・サンフランシスコ大学歯学部口腔生物学名誉教授)は語っています。「彼はまだ企業でしか、う蝕予防の研究が行われていないころに自力で研究を始めて、歯科保健専門家に独自の信頼に足る根拠を示しました。倫理的規範と科学的な誠実さの領域に関する仕事は、今では研究の規準になっています。」

彼は長年にわたりアメリカ歯科医師会(ADA)のために尽力し、また生前には、アクセス、予防、異職種専門家関連の国家フロリデーション諮問委員会に関するADA協会のメンバーを勤め、さらにフッ化物に関するスポークスマンでした。

今年4月には、ADA、州と地域歯科専門官協会並びに疾病管理センター(CDC)から2003年フロリデーション功労賞が授与されました。

「ホロウィッツ博士はわが国のフロリデーションに関するスポークスマンとしては卓越しておりましたと、CAPIR会員で国家フロリデーション諮問委員会議長のミッチェルシュワルツ博士は語っています。「フロリデーションの利益を説得する彼の専門的な意見、知識ならびに能力は目を見張るものがあり、彼の死は、今後歯科保健専門家には途方もない痛手になるでしょう。もちろん、彼は公衆衛生の唱道者でした。」

ホロウィッツ博士は1932年生まれのデトロイトっ子で、歯科医に憧れていました。彼は1994年ジョンW.ナトソン特別賞の報じた米国公衆歯科衛生誌に次のように回想していました。「ピンセットで金属の小片を掴んだり、クリベッジのボード状のブロックの穴にその小片を置いたり、また、歯科志願学生が特別な彫刻を課せられるチョーク片を半分にするといった歯科医としての職業適性検査の100のうちたったの11しかできないようでは歯科での成功は覚束ないものであった。

「私の不完全な彫刻にもかかわらず」と彼は付け加えているが、ミシガン大学歯学部に入学し、1956年にクラスで11番目の成績で卒業した。

卒後、ホロウィッツ博士は約2年間日本(広島県呉)に軍歯科医として滞在し、その後、デトロイトに戻り、同僚の励ましもあってミシガン大学で公衆衛生プログラムのマスターコースに入学した。このプログラムを履修後に、公衆衛生の歯科方策の部門に参画した。

彼はサンフランシスコの歯科保健センターの疫学部門主任として勤務しているころに妻アリスと出会って求愛し結婚した。アリスもまた公衆衛生分野の科学者でしたが、自分の将来の夫を「ちょっと恥ずかしがり屋さんね」とからかったと言う。「彼は38歳の学士さんで、廊下で独身女性とすれ違っても挨拶ひとつしなかった」とアリスは語っています。 

「ハーシェルは良く笑いました。彼はユーモア感覚に溢れる実に円満な人でした。」とホロウィッツ未亡人は話しました。「私たちはよく働き、よく遊びました。彼は旅行が好きで、素晴らしいところに足を運びました。クラッシック音楽を愛しており、自らも素晴らしい歌手でした。バレエと旧い映画と博物館を愛していました。

いつも、どのテレビ番組を見るかプランを練り、製作兼視聴者と言っておりました。」

ホロウィッツ博士は熱心な美術収集家で、特に1920年代から1930年代の絵画に興味がありました。彼の飽くなき収集への関心は趣味を超えて自分の仕事にまで発展して行きましたとアリスは付け加えています。

「彼はよく美術館に通う尊敬すべき人でした」とニューブルン博士は言っています。「彼は素晴らしい銅版画と彫刻を集め、その分野でも博識でした。彼は心から美術を理解して鑑賞していました。」

「彼は政治についてディベートすることを好む非常に思慮深い人で、幅広いテーマに多くの事を知っており、圧倒されっぱなしでした」とホロウィッツ未亡人は語っていました。「私が話すことを彼はほとんど知っていました。しかし、彼は自分の信念を曲げなかったので、人々から愛されました。ハーシェルはハーシェルであり、自分の言動にはしっかりとした確信を持っていました。」

ホロウィッツ博士の追悼式は後日計画されるでしょうが、献花を遠慮する。アリスホロウィッツは、以下のAAPHDへの奨学寄付を求めています。

c/o Herschel S. Horowitz Scholarship Fund, 1224 Center West, Suite 400B, Springfield, Ill. 62704.