先週の土曜日11月23日に、山本武夫先生が渡辺憲央さん宅を訪問されてから、1週間が経ちました。 田浦は12月1日の8020財団フォーラムを聴講すべく大阪に行きました。11月30日午後4時前に、阪急電車梅田駅の次駅天満駅を降りてから道なりに右へ、天神橋の路上に白髪のいかにも善良な御老人の出迎えを受けました。この人が渡辺憲央さん、当年88歳とは思えない背筋の真直ぐな素晴らしいお方で、太平洋戦争敗戦直前の沖縄の惨状を生々しく伝えた「逃げる兵」(文芸社)の著者である。 ワタナベ写真の3階の部屋に案内されて、挨拶もそこそこに、机上の「逃げる兵」「沖縄日本軍の虐殺」「三人の元日本兵と沖縄」他1冊の本を目の前にして、渡辺さんは淡々と話されました。「逃げる兵」の執筆動機から語られました。後にも先にも1度だけ敗戦後に、天皇陛下は海外のプレスから彼にとって辛辣なる質問を受けられたそうです。恐らく1960年代初めのころでしょう。渡辺さんはテレビの前で「今次大戦についてどのように御考えか」というプレスの質問に対して天皇陛下がどのようにお答えになるか注視されていたそうです。すると、陛下は苦渋の表情を浮かべながら「戦争を始めたのは東條英機で、戦争を止めたのは私である」と述べられたそうです。その時、渡辺さんは「これはたまらない。これでは戦友は浮かばれない」と思われたそうです。彼の頭の中には、沖縄での戦いで多くの戦友たちかの天皇陛下のために命を落としていった場面が過り、このありのままの事実を記録執筆しなければならない思いに駆られたそうです。とは言え、写真が専門の渡辺さんにとっては、写真の説明についてはそこそこにいけても、系統だった文章となるとなかなかそうは行きません。そのころ写真の仕事で知己となった司馬遼太郎さんに、沖縄戦の惨状を話したところ、書き留めておくことが大切であるというアドバイスをもらったそうです。そこで、渡辺さんは写真館の一室に、沖縄での各々の場面を書き綴って拡げて、それを順序よく並べ替えながら一冊の本としてまとめられて初版本「逃げる兵」が自費出版されたそうです。1979年6月1日に(株)マルジュ社から発刊されました。そして、2000年5月1日には、(株)文芸社より改訂出版されました。 逃げる兵はクリ舟に乗って漂着した島が久米島でした。そこで何が起こったのか。日本兵20数名と米兵500名、両者の狭間に立たされた久米島民。その間に生じた人々の姿と彼らの生き様を見てきた生き証人が渡辺憲央さんです。彼は言います。「本来人間は善だと思うよ」と。それがギリギリの極限状態に立たされた時に、どのように振る舞うのかということである。太平洋戦争の流れの中で、皇民として叩き上げられた兵隊にとっては自らの意志とは係わりなく、皇国の掟から一つとして逃れることはできない。国民とて同様である。 この文をプラザオーサカの一室で書いています。私たちは戦争知らない世代になりつつあります。渡辺さんの言葉は身にしみました。2002年も12月を残すのみとなりました。そして、これは命まで奪う「戦争ではありません」が、昨年来の旧具志川村における緊急の水道水フロリデーション支援の取り組み、今年2月のF反対集会、3月の久米島具志川村の水道水フッ化物応用シンポジウム、それに引き続く5月の久米島町長選挙での内間清六さんの敗北。旧具志川村フロリデーションはここ数年来の日本における水道水フロリデーションの取り組みの縮図であると読み替えたい。 久米島住民虐殺事件と久米島具志川村フロリデーションを結び付けようとは思わない。次元が違う問題である。しかしながら、そこに横たわる人間模様、国家と個人と生活の場である地域との相互の関係には類似点があるかもしれない。 昨日に、渡辺さんが出されたキーワードは「国益」でした。民よりも国である。 「軍国化」「富国強兵」のプロセスで、軍人精神を叩き込まれて、人が変えられていく様を渡辺さんは述べる。 『天皇陛下のために死ね』と言われるから考えるのですよ。俺と天皇陛下とはどういう関係にあるのか、国家と自分とはどういう関係にあるのかと。・・・」 国益とは何か。己の身を投げ打って敵陣と戦い勝つ。最前線で『天皇陛下のために死ぬ』国益に反するとはいったい何なのか。 そして、沖縄戦の末期の事実;スパイ容疑による住民虐殺事件の発生。 |