越後七不思議「焼鮒」田代家

 2009年3月7日、30年ぶりに、越後七不思議「焼鮒」の田代家を訪問しました。小生が新潟大学の学生の頃から、懇意にさせていただいているお宅で、ご縁があって学生時代に何度もお邪魔し、ご馳走になったことがありました。大学の同窓会の会合で出かけた折、ほんとに久しぶりに訪問させていただきました。「焼鮒」旧跡を守る田代和子さんとは、年賀状で毎年お付き合いさせていただいて、30年ぶりとは思えない様子で、1時間半余り思い出話を咲かせました。昔、ぼんやりと聞いた「焼鮒」伝説も、この度しっかり聞いてきました。そして、「焼鮒」御姿のお厨子様の前で、心を込めて、佛説阿弥陀経をあげさせてもらいました。ところで、立派な郊外型観光商業施設「新潟ふるさと村」というのがすぐそばにあり、30年前、新潟市内から旧県庁前発の新潟交通の市電が通っていた頃と隔世の感があります。近くに寄られたら、是非この不思議な「焼鮒」伝説を訪れてほしいものです。(山本武夫)・・・越後の七不思議 @ A B
越後七不思議「焼鮒」伝説
 昔、親鸞聖人は、宗教弾圧を受け、越後の国に遠島の罪を受けられました。国府(今の上越市)に2年、鳥屋野(今の新潟市、焼鮒のある山田の里に近い)に3年、逗留されました。その間、越後の人々に布教活動をされましたが、中でもこの山田の里の山王権現が気に入られて、建暦元年11月17日、勅免の御沙汰があり、京に帰ることになり、鳥屋野を出発し、山田の里で、村人達とお別れをされました。お酒を酌み交わし、村人達はその酒の肴にと、焼いた鮒を聖人に差し上げたところ、袈裟を傍らの榎に掛けて、その焼いた鮒を手にとって、「我が真宗の御法、佛意にかない、念仏往生間違いなくんばこの鮒、必ず生るべし」といわれ、念仏を申されながら、池に放されたら、不思議な事に鮒がたちまち生き返ったのでした。そして、この袈裟をかけた榎に念仏の願を掛けておくので、この榎を大事に育てよといわれたそうです。そして、600年余りその榎は山王権現に祀られてきました。しかしながら、江戸時代、寛政8年辰の年、今で言う台風の風に倒れ、祀ってきた村の人々の意に反して、木を伐らざるを得なくなりました。ところが、二股に分かれた木を切ってみると、一方の幹には、親鸞聖人の御姿、もう一方の幹には、焼鮒の御形が現れていました。切っても切っても、幹には二つの姿が現れていました。これは、まさに親鸞聖人の教えの通り、山王権現の榎に深く宿願を籠められて、御法は旭の輝くがごとく、末世にその霊験を残さんとの御遺命に違わず、つまり、この幹に御姿を残されたのだと、村人達は理解したそうです。それからは、袈裟かけの榎の代わりに、「聖人の御姿」と「焼鮒の御形」を、宝物として大事に祀ってきたそうです。
 ところが、この山田の里の「田代家」に戦時中から、疎開して住んでいたものが、昭和23年に不始末をして火を出し、その館が全焼してしまったそうです。村人達が必死に火の中から取り出して無事だったのが、「焼鮒の御形」で、「聖人の御姿」は燃えて炭となってしまったのだそうです。それ以来、田代家では、村人から寄贈された仏壇「お厨子様」に、戦前焼ける前に村人が撮った「聖人のお姿」の写真をはった、炭となった「聖人のお姿」の幹と、無事であった「焼鮒の御形」が、祀られてあります。