山本敏雄記 

 父の50回忌にあたって         2004年(平成16年)8月22日  

          
     小生が大学時代ずっと学生証と一緒に持っていた写真

山本武夫(長男)

 敏雄 略歴

大正10年(1921年)12月6日 父権次郎、母ふしいの次男として生を受ける

昭和2年、南山見尋常小学校に入学、その後、礪波中学に進む 礪波中学4年で、陸軍士官学校に合格

陸軍士官学校予科、本科と卒業(54期第28中隊)し、その後、歩兵第150連隊(松本連隊)に配属される

昭和19年、トラック島に出征 米軍の攻撃を受け、上陸目前に輸送船が撃沈、海中に

味方輸送船に救助され、九死に一生を得、トラック島に上陸、そこで終戦

戦後、須河信一氏の下、県内外で働き、郷里井波の隣町庄川の出身の中川行夫氏らと、昭和29(1954)年4月、滋賀県信楽町で土木工事請負業を起す

これから、活躍という昭和30年(1955年)10月14日、満33歳の若さで急逝

(エピソード)  武夫が故人の知人から聞いたもの
*   祖母ふしいより
「がっちりとした体格で、小さいときから健康優良児で、風邪引いても1日たてばけろりとしていた。学校を1日たりとも休むこともなかった。礪波中学時代、大雪で中越鉄道が動かなくても歩いて登校した。学校に着いたら1人だけだったこともあった。初めて病気したのが、命取りになった。」

*   礪波中学同級生、横山隆吉先生より
「お前の父は、礪波中学のとき、英語の辞書を覚えたら1枚づつ食べていった。優秀なやつだった。」

*   家族(祖母)より
「終戦を迎え、米軍が上陸して、英語ができたから通訳して速やかに帰還できるようにした。米軍の担当者が、あとから手紙をくれと住所のメモをくれた。」
「戦争から帰って、また自衛隊に入らないかと誘われたらしいが、首を縦に振ることはなかった。」

*   滋賀県信楽町、直村巌さんより
「信楽では、思いやりのあるいい人だった。あるとき、バイクが故障して焼け焦げてしまい、ショックで1日ふさぎこんでいたことが大変珍しかった。また、あるとき、宿の仲間にさあ食べようといっぱい買出しにいってきて、半分以上自分で食べていた。戦争時代の飢えが忘れられないようだった。人の2年分を1年で食べてしまうような食欲だった。」(高校時代、大阪万博の途中、信楽に立ち寄って)

*   家族(母や祖母)より
「死に際に、『お父さんのように柿食べすぎたら、ぽんぽ痛くなるよ』、といっていた。」
「3歳のお前にも、今からでも躾をきちんとせんとあかん、掃除や手伝いを何でもさせろ。」

*   叔父(故哲夫)より
「お前を医者にせんならんと、言っていた。」

トラック島上陸目前の記録 (『松本連隊の最後』より)

昭和18
1010日第1次先遣隊(40)出発
11月14日第2次先遣隊(120名:師団全体で550名)

昭和19
121日深夜 松本連隊、出征。宇品(広島港)へ。
1月27日午後 宇品にて壮行会
1月28日早朝 辰羽丸に、第二大隊、第2歩兵砲中隊(山本敏雄中尉以下)乗船
      暁天丸(連隊本部)、新京丸にも分乗して乗船、米軍潜水艦を避けながら、横浜港へ
2月1日 松本連隊船団、護衛に1等駆逐艦「藤波」が当たる
24日深夜 横浜港、出港
2月9日 八丈島もはるか彼方へ、南進
2月11日 連合艦隊、トラック島からパラオに後退
2月13日 松本連隊船団、連合艦隊と行き違う

2月17日午前3時30分 船団、トラック北方海面の沖合いで、米軍潜水艦による魚雷攻撃、暁天丸炎上、夜明けに沈没
     残りの船団、トラック島炎上の報で、西方のサイパンに向かうが、辰羽丸は、燃料が不足。
     サイパンに向かえず悲壮な覚悟で、トラック島へ南下

     (午前4時20分 もうすぐ到着予定のトラック島が、米軍の奇襲で、航空兵力が壊滅。
          先遣隊を含むトラック島基地の守備隊も、壊滅的打撃を受ける)

    午前8時30分 駆逐艦「藤波」暁天丸の漂流将兵を救助
    午後1時 辰羽丸航行中に、米軍艦載機に攻撃を受け、船倉の爆薬に引火、大爆発。
         
第二大隊本部全滅、大隊長戦死。「全員退避」の大隊命令、午後2時27分、辰羽丸沈没。

    日没後、駆逐艦「藤波」と、もう1隻の海防艦が辰羽丸漂流将兵を救助開始。
        暗闇の中、救助将兵が一杯で救助作業の中止。

2月19日午前11時頃、駆逐艦「藤波」外の海防艦も、トラック島上陸 
2月21日夕刻 新京丸サイパン到着、上陸するとあいなし、米軍機動部隊に大空襲される(新京丸は無事)
2月24日 乗船しトラック島に向かう
2月29日 新京丸、魚雷攻撃を受けるも無事かわす
3月2日夜10時 新京丸魚雷2本を命中され、海防艦「天草」に全員移乗、3日沈没
3月5日 海防艦「天草」トラック島夏島に上陸

壊滅的打撃を受けた、第二大隊が新編成され、山本敏雄大尉が第二大隊長に新任。(2月20日過ぎ?)

その後は、サイパン逆上陸作戦(イカダ渡洋作戦)の指揮官になる話も出たが、数度の空襲に対する小戦闘らしいもののほかは、飢餓に対する食糧調達(畑・海)が連隊の仕事になった

昭和20年8月15日正午 天皇放送と大本営発表