昭和20年地獄の沖縄戦線を伝える「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」の著者、渡辺憲央さんにお会いして!

 2002年11月23日、大阪、天神橋のご自宅を午後、訪問致しました。満88歳になられるとは全く思えず、かくしゃくとしておられました。3階のお部屋へ案内していただいたのですが、少し急ですからと、先に階段を上っていかれました。やがて3時間近くになる間、当時のこと、その後のこと、現在の思いなど、いろいろ聞かせていただきました。最後に、記念写真をお願いしますと、お孫さんをお呼びになり、立つ位置とか、向かい合うポーズで顔をカメラに向けるなどとか、さすがに今なお現役のカメラマンのご様子でした。ご健勝をお祈りし、帰路につきました。(山本武夫)
 ちょうど、その後、田浦勝彦先生も、渡辺さんを訪問されました。その手記も披露します。

【お会いしたきっかけ】

 そもそも、渡辺憲央さんの名前を知ったのは、今年の3月です。ちょうど、沖縄県久米島の具志川村で
「久米島水道水フッ化物応用シンポジウム」日F会議報告集新聞記事写真集を参照)が開催されて、帰ってきた直後です。空と海の美しい島・久米島に行ってきた話をすると、知人の医師から、「戦時中、その久米島で日本兵の島民虐殺があった話を知っているか。」と言われ、自身の蔵書の中から探して見せてもらったのが、昭和54年(1979年)発刊の「逃げる兵ーサンゴ礁の碑ー」(初版本)でした。
 私自身も、手元に置いておきたくて、ブックセンターなどに問い合わせましたが、絶版となっており、改定版で「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」が2000年に出版されており、在庫が1冊あり、急いで注文しました。
 本の内容は、後述しますが、そこには、渡辺さんら召集兵が、むかった沖縄戦線の悲惨さ、また、やむなく逃亡兵とならざるを得ない想像を絶する極限の状況下で、クリ船での脱出と久米島への漂着、そして、久米島守備隊の日本海軍兵の虐殺や米軍への投降が、ありのままに克明に書いてありました。
 それからやがて60年近く経ちます。久米島のフロリデーション(水道水フッ化物濃度適正化)の進展がやや鈍くなった原因として様々な要素がありますが、島の事情がもし過去のこんなことにも起因しているとしたら、まずこの歴史を理解してみることも大事ではないかと自分なりに考えました。
 一度、著者の渡辺さんにお会いしたいと、本の住所にあるご自宅に電話をかけ、ご健在であることをご家族に確認し、渡辺さん自身とも電話でお話をお伺いしました。それで、電話だけではと思い、この日が開いておられることをお聞きして、小生が大阪に出向いて面会が実現しました。

【渡辺さんにお話し頂いた内容】(テープより原稿おこす)
はじめに、小生の自己紹介と渡辺さんへのお願い
 歯科医で、フッ化物によるむし歯予防に情熱を注ぐものです。渡辺さんの真実を著すという、人間としての原点に感銘しました。日本ではまだまだ情報公開が足りないフッ化物応用の正しい知識の普及と共通点がある(くさいものに蓋をする)と感じ、お会いして頑張るきっかけになればと思いました。
 私自身については、父が3歳で亡くなったので、父の戦争体験を全く聞いたことがなかったのですが、久米島、「逃げる兵」に関連して、最近、父の所属していた「松本連隊の最後」という本を誇りまみれの中から取り出して読み、戦時中のトラック島での悲惨な状況を再認識したところです。もし、よかったら「逃げる兵」のこと、あるいは、その後のことなど、お聞きしたいものです。
 また、久米島具志川村でのフロリデーションについて、一部の反対派の扇動や、具志川村議会の硬直、町村合併後の新町長選挙、旧仲里村長の新町長のフロリデーション棚上げ発言の流れが、戦争時の体験などの久米島島民の複雑な心境から来るものではないか、渡辺さんの感じたところを聞かせていただきたいです。

久米島について
 沖縄の人たちは、本当に純真です。久米島住民虐殺事件は沖縄の縮図みたいなものです。ですから、沖縄の人たちは戦争に対する不信感をずっと持っています。沖縄からこの不信感が完全に消えるのはあと50年かかるでしょう。

久米島に実際起こったこと
 沖縄はいろんなことがありました。特に久米島では、私も渦中に入っていました。久米島の人たちは、大変純朴です。それがゆえに久米島の事件は複雑です。
 事件とは海軍のK兵曹長が二十数名の人を虐殺したことです。その中に、私がお世話になったAさんや、捕虜になる時に手引きをしてくれたNさんが含まれています。Nさんは(久米島フッ化物応用シンポジウムのあった3月2日に筆者が泊まったという)日航久米島ホテルのあるイーフの浜から200mほど先の浜から少し入った畑の小屋の中で、奥さんと生まれたばかりの赤ちゃんまで一緒に道ずれに殺され、1カ月ぐらい、島の人たちも亡骸に手がつけられなかったそうです。K兵曹長からの米軍に加担した見せしめだという命令があったからです。それに対する、島民のK兵曹長に対する不信感は相当なものです。
 しかし、問題は複雑で、あの当時、K隊(K兵曹長率いる海軍通信隊)に手を貸す島民もいたのも事実です。なぜかというと、それがお国のためだと考えたからです。

 (筆者の持参した久米島の地図を見ながら)くり舟で沖縄本島から脱出して、着いたのが大田の浜です。ここの民家で一宿一飯の世話になり、翌日山頂に電波探知機にある通信隊(K隊)本部に連行されました。そこで、「逃亡兵だ」と、さんざん殴られたのです。【その後、渡辺さんらは、久米島に不時着していた特攻隊の陸軍のグループに合流し、行動をともにされました。(筆者追加)】
 その後、久米島には、アメリカ軍が500名ぐらい上陸して銭田(イーフ)の浜にキャンプを張りました。私と戦友高橋君は島のあちこち山の中を隠れ周り、最後に大岳のこのあたり(地図を示して)まで行ったあげく、あちこち逃げ回ったあげくにとうとう山城(やまぐすく)で投降する決心をして、Nさんの手引きでイーフの浜で捕虜になりました。浜では、鉄条網のある小さな柵の中に入れられました。
 先に沖縄で捕虜になり、出身地の久米島で悲惨なことが起こらぬように、投降を呼びかける宣撫に来ていたNさんも、奥さん・子供とともに、アメリカ軍に保護を求めてキャンプに来ていましたが、アメリカという国もそこまでは面倒は見ませんでした。私だったら、無理に頼んででも幕舎(キャンプ)の近くにおかしてもらうでしょう。ところが、Nさんは沖縄の人ですから、人がよくて、言われたとおりにして、少し離れたサトウキビ畑の掘っ立て小屋にかくれてました。そこへK隊が襲ってきて、全部殺してしまったのです。
 ですから、久米島に人たちの日本人に対する不信感は、並大抵のものじゃないはずです。ですから、あそこは難しいですよ。(地図をみながら)私は戦争中は島の北のほうへ行かなかったが、K隊は北のほうにいて島の人たちから徴用といってはいろんなものを供出させていました。言わば、山賊と同じです。軍の権威をかさに、なんでも手に入れていました。アメリカ軍が上陸した後は、8月15日過ぎても山に潜伏し、村の人に「二十何人分のおにぎりをここにおいて置け」など、強要していました。村の人たちは、(AさんやNさんのことがあり)背いたら怖いから、ご無理ごもっともで従わざるを得ませんでした。

これが戦争なのだ
 立場を変えれば、K兵曹長にしてみれば、もし簡単に投降して戦後日本が勝っていたなら、処罰されます。私なんかは、もちろん銃殺刑です。だから、K兵曹長は国の要求することをやっただけです。戦争に負けて、鬼みたいに言われているけど、考えてみれば、あの人も戦争の被害者なのです。
 海軍通信隊は、S兵曹長がK兵曹長の前任者でしたが、交替し引継ぎした後で、戦渦がひどく、沖縄に戻れずそのまま残っていました。この、S兵曹長は、35−6歳か40歳前でしたが、この人が責任者なら年がいってるだけ理性も少しは働き、こんなことは起きなかったかもしれません。何しろ、K兵曹長は血気盛んな24−5歳で、軍人勅語の言われた通りをやっていました。「わが国の軍隊は、天皇の・・・・」の軍人勅語の通り、天皇中心の神の国であるから、お上に服従しなければならないという考えで動いていました。

この事件の発掘は(1)
 この久米島事件は、毎日新聞の大島記者が、取材して発掘されました。きっかけは、沖縄の捕虜収容所で一緒だったタイガース(現阪神タイガース)の監督をした松木謙次郎さんと私は、戦前「ベースボールマガジン社」のカメラマンをしていた関係で親しかったのですが、戦後大島記者が野球の取材中、沖縄戦を経験した人の話がでての、私に久米島を知っているかと尋ねてきました。(当時、大島さんは既に久米島に関していろいろ取材活動をしていましたが、)もちろん私も当事者なので、詳しく話すことになりました。(続きは後述)

収容所生活
 久米島での捕虜生活は2週間ぐらいで、その後、沖縄本島の屋嘉(嘉手納湾あたり)の収容所に送られました。その当時、沖縄の日本軍は壊滅していましたが、日本兵は捕虜になると殺されるなどと、なかなか簡単には投降してきませんでした。ちょうど、小野田少尉や横井庄一さんのようにです。最初は、隠れた日本兵を呼び出すための作業をしていました。アメリカ軍は重宝がって、一緒に探し出す知恵を貸してくれといいました。わたしも何とか隠れている日本兵を助けなければならないと思って、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいとアドバイスしました。その後、前職のカメラマンの腕を買われて、捕虜の撮影と現像の仕事をしました。そこで一緒に仕事をしたのが、アメリカ軍では、日本語もできるジョーとジミーという2世のエリート曹長でした。一生懸命仕事をしたので、信頼されました。
 収容所には、沖縄の人、日本兵、強制連行された朝鮮人【当時の言葉でお許し下さい(筆者:山本)】がいました。沖縄の人は、別の沖縄内の収容所に、私たちがいた屋嘉の収容所には、日本兵が約1500人、朝鮮人が約500人いました。朝鮮の人たちのいろいろな話を収容所では聞きましたが、大変かわいそうな状態でした。そういうこともあってか、8月15日、一番最初に終戦をアメリカ軍が知らせたのは、朝鮮人の幕舎(収容キャンプ)でした。日本人より先にです。そうしたら、朝鮮人が一斉にドラム缶をガンガンたたいてワーと歓声をあげて踊りくるって喜んだのをいまだにわすれません。私たち日本人は、捕虜になっていても、負けるのがわかっていても、日本が負けたというのは複雑な気持ちで受け止めるざるを得ませんでしたので、みんなしょぼんとなっていました。 
 そんな中、久米島の上江洲にいた海軍K隊が、投降しました。9月の何日かに、陸海軍合同の投降式をして、二十数名が沖縄本島の収容所に送られてきました。K兵曹長の行いに対して快くは思っていない兵隊が何人もいましたので、収容されたK兵曹長はその晩に兵隊たちに殴られたのです。収容所内は無警察状態ですので、感情が高ぶると何が起こるかわからないです。
 
戦争時の人々の心、それは猜疑心の固まり
 兵隊たちでさえK兵曹長のことを良く思っていない人が多いので、まして沖縄の人たちは、快くは思っていないでしょう。久米島の人たちのことを余程考えていかねばなりません。まだまだ、怨念は残っていますよ。
 沖縄では、日本人同士の争いでもどのくらいの人が亡くなったかわかりません。人間は戦争の最後になったら、人間じゃなくなるのですよ。沖縄の人たちの過去に対する自分たちの行った行為に対する怯えは何から来るか、それは全くの猜疑心であることを身をもって感じました。
 私は、マスコミのカメラマンをしていましたから、ものを客観的に見ることができました。
 沖縄戦最後の摩文仁の海岸では、日本人同士でさえ危ないのです。日本人同士で死に掛けている兵士を殺しているのです。
 それは、ガタルカナル島(ニューギニア)でもありました。私の家内の弟も、そこで戦死しましたが、死人の肉を食わないと生きていけない状態でしたから、同じことがありました。人間は極限状態になったら、どんなこともします。

 沖縄の人たちをそこまで追い込んだことを知っていないといけないし、その沖縄の人たちの怨念は忘れてはいけないと思います。
 それを分かって踏まえてかかっていかないといけません。
 みんな、それをひた隠しにするが、それはいけないと思います。あきらかに、申し訳なかったと人間でなくなるのが戦争です、と率直に言ったほうがいいと思います。悪いことは全部隠してしまいますからね。
 
 日本の悪い点 
 (筆者)うちの町でも、今頃になって、80歳過ぎた人が「シベリア抑留を語る会」というのをはじめられました。つらかった思い出など、もっと早く真実を語ればいいのにと思いました。そんな中に、今は著名な富山出身のS氏(元日本軍参謀)などが、いろいろなことをしてうまく逃れたという話も聞きました。

 そうそう、日本というのは、おかしいのですよ。そんな具体的な例を挙げればきりがないですよ。たとえば、ビルマ戦線で、某参謀が行方不明になったという事件がありましたが、あれもやられているのは、間違いないですね。
 だから、日本人はなぜ、ありのままを言って、率直に謝らないのかと、思います。変にごまかして隠すからおかしいのです。ですから、沖縄の人たちが怨念を持っているのは当然です。私は真実を語らねばと思い、沖縄戦のことを、あの程度までなら許されるだろうと本に書きました。
 久米島で交渉されるのでしたら、いろんな予備知識を持っていかれたほうがいいです。
 
 久米島事件を発掘したのは(2)
 この久米島事件の日本軍というのを書いたのは、毎日新聞の大島さんという、後に編集委員になった偉い方です。徹底的に久米島事件を掘り下げて書きまして、国会の場まで行ったのです。だけど、国会の場で、もみ消されてしまって、ついに表に出なかったのです。今日でもみられるように、くさいものに蓋をするという扱いを受けたのです。ですから沖縄の人の憤懣というのはあって当たり前です。なかったらおかしいのですよ。それを理解して沖縄へ行かないといけないですよ。
 私は、ほんとにおかしいと思うのは、なぜ過去の悪かったことは悪かったと何で率直に将校が部下に謝らないのか、ということです。

 (筆者)これは、HPからの資料ですが、浄土真宗本願寺派のあるサイトもので、戦争中の反省として、真宗の戦争協力や侵略の事実、犠牲の事実などのページがあって、この中のひとつに、渡辺さんの「逃げる兵」のことが載っていました。

 当時の教育
 久米島のことは、沖縄戦の縮図で、久米島事件でも、K隊に協力するのは当たり前だという人もいたのです。(その反面、それに対して怒りをもっていた人もいましたが・・・。)そのくらい、当時は日本の皇民化教育は徹底していたのです。あの当時はご承知のように、初年兵で入った時は「天皇陛下のご恩は山よりも高く、海よりも深い。その広大無辺のご恩から比ぶれば、お前たちの一命はコウモリよりも軽い。鳥の羽よりも軽いのだ。だから、天皇陛下のために命を捧げるのは当然のことだ」というふうに、教育されたのです。ですから、実際、沖縄で死んだ兵隊たちはそうでした。

 Aさんの処刑されるときのこと
 久米島でお世話になったAさんがK兵曹長に処刑される時でも、K兵曹長が「お前は日本人としてこんなものを持ってくるからには、覚悟ができているだろう」と言っているのです。それは、アメリカ軍から託された「もう日本軍は負けだから、投降しなさい」という投降勧告文です。Aさんは、それを強制的に持って行かされたわけです。あのときの状況を知っている私だったら、絶対にもって行きません。ところが、Aさんは(アメリカ軍から)そう言われたら、それが人間愛だと思って行ったのです。ところが、それが裏目に出て、日本に背を向ける非国民ということになったのです。だから、K兵曹長を鬼みたいに言いますが、その鬼にしたのは日本のそのときの教育です。Aさんが、K兵曹長から、引導を渡された時に、「有難うございました」と深々と頭を下げたと、その場に立ち会った兵隊(くり舟で一緒に逃げた)から私が(収容所で)直接聞きました。その時、その20歳ぐらいの若い兵隊(韓国からの召集兵)が、「Aさんは、殺されるのにどうして頭をさげたのでしょうね。」と、私に聞きました。手を掛けた兵隊から聞きましたが、Aさんの処刑は後ろ指に縛られて、左右から海軍の儀式にのっとって、銃剣で構えて、くくられて逃げ場がないようにされて、部落の人たちの前で、見せしめにして行われました。Aさんはそうなって、「有難うございました」と謝辞を述べたと、K兵曹長も得意顔に言ったそうです。その兵隊に言いましたが、Aさんがそういったのは、一生懸命に自分の気持ちに「自分は悪いことをしたんだ。殺されるのは当然だ」と、言い聞かせながら、処刑されたのです。

 死に直面した境地とは・・・それは『安楽死』
 そのほかにも、例を挙げると、本にも書きましたが、沖縄戦で大度の海岸で、本部壕に迷い込んできた女学生を刺して殺している事件がありました。あまり離れていない米須の患者壕で手当てをしていたひめゆり部隊がやられて、逃れてきた一人でしたが、本部の大隊長以下この壕に50名あまりが隠れていました。もし、この女学生を外に出して、アメリカ軍につかまって、「あそこにいます」としゃべられたら、この壕がわかって全滅するかもしれないということで、しょうがないから殺せということになりました。そのときに、女学生が銃剣を突きつけられて、「兵隊さん、東の方向を教えてください」と、聞き、「東の方向を聞いてどうするのじゃ」というと、「宮城を拝んで死にます」と、東の方向を向いて手を合わせました。
 これも、Aさんの時と同じです。Aさんが処刑されるときも、その理由がないのです。だから、「ああ、私はお国のために死ぬんだ、無駄ではないんだ」というふうに、一生懸命に自分の気持ちに言い聞かせながら死んでいるのです。
 私の友人だったタイガースの監督をしていた松木さんは、通称”いし”部隊で京都の師団でした。あの人は一番早い時期に捕虜になりましたが、最初のほうの戦線で、第1線にいて、弾がいっぱい飛んでくる中を突撃するのを体験したそうです。兵隊は、「”いし”部隊ばんざーい」と絶叫して走るのと、「天皇陛下、ばんざーい」と走っていくのと、どちらかで、とにかく絶叫して前線を抜けて行ったそうです。その後、松木さんと話しましたが、「死ぬことを恐れる、そんな気持ちを整理せんと、命賭けの突撃はできんやろね」ということでした。何百人という兵士が、第一線のアメリカ軍の銃砲火の中を”さだ”渓谷に抜けて行ったそうです。
 それから、摩文仁の海岸に某隊の碑というのができています。当時そのあたりに、一人の将校が当番兵と一緒にずっとうずくまっていたそうです。その当番兵は律儀な人で、一生懸命面倒を見ていました。その将校は負傷していて、少し弱っていたけど、最後は、当番兵も見捨てていなくなって、将校一人になってしまったそうです。あの将校いつ死ぬかと、ほかの兵隊が見ていたが、それから二日か三日後に、夜明け前、「天皇陛下、ばんざーい」という絶叫が聞こえたそうです。と、同時にピストルの発射音がしたそうです。そして、いってみるとその将校は耳に銃を当てて死んでいたそうです。
 これらはみんな一緒です。最後はみんな、いわば『安楽死』なのです。若い兵はみな「お母さーん」、沖縄では初年兵が「アンマー(お母さん)、デージー(大変だよ)。アンマー、デージー。」と死にました。やっぱりへその緒でつながっている強さです。「お父さーん」といって死んだ人は誰もいません。
 病気で死ぬ人は別ですが、非業の死を待つ人はみんな一緒です。Aさんや女学生、その将校はみんな「天皇陛下、ばんざーい」でした。軍隊の強さなどというけど、あれでないと戦争できないわけです。人間の殺しあいですから。
 
(筆者)【自分の身近の話や日本の歯科界の話や久米島の話を少し余談でしました。】(渡辺さんに一服してもらいました) 


捕虜収容所から復員
 沖縄の収容所から、復員しましたが、家は全部焼け野が原で何も残っていませんでした。
 復員する時、働いた分を日数計算して給料を出してくれるのです。アメリカという国はそういう点ははっきりしています。翌年の3月10日に復員することになり、その前に、アメリカ軍の収容所の一番偉い人が、私を呼んで、通訳を連れて、「長いことご苦労様でした。給料を渡します」と、アメリカの軍票でくれました。「渡辺さんは、大変尽くしてくれました」と、褒められました。褒められた意味は、私は『一人でも多くの捕虜を助けたい』という努力と、『日本人は盗人だという観念をなくさせる』ために努力したことに対してです。
 とにかく当時、日本人、あるいは軍隊といったらいいかもしれませんが、軍隊は盗むのが専門で、どんなまじめそうな兵隊でも盗む世界です。それで、沖縄の人も苦労していました。
 私は、とにかく、アメリカ軍がこの後日本に進駐してくるから、『日本人がみんな盗人だと思われては困る』、だから、仕事をやる以上は精一杯やろうじゃないかと、私が主になって働きました。(大抵ほかの兵隊たちは、何か1つ小さいことでもアメリカ軍に損害を与えるのがお国のためだと、考えていました。)そういうわけで、収容所を出るとき、アメリカ軍は信用して、収容した日本軍の軍用金を持っていけといわれました。そんなもの持ってて見つかったら困るというと、ズボンを新しいのをやるから、重ねてはいて、中にまいていけと言われました。出るとき検査をして見つかったら処罰されると言うと、そのアメリカ軍将校は、検査は自分がするから大丈夫と言いました。それから、大きな袋に10円札を押し込んでくれて、その上からチョコレートやたばこや安全カミソリやら石鹸やら日本にないものをいっぱいアメリカの兵隊が詰め込んでくれ、もって帰りました。そうして浦賀に上陸したら、厚生省の検査があり、全部出せということで出しました。そしたら、10円札は全部新円に切り替わっていました。軍票は一部が換金できましたが、あまりに多いので税関に預り証を貰い預けましたが、後に、税関にごまかされ全部パーになりました。

収容所でアメリカ軍から学んだこと
 アメリカと言う国は、そんな点では(いいものはいいと味方にする)合理的なはっきりした国です。
 捕虜でいた時、アメリカの「ライフ」と言う雑誌に、イタリアのムッソリーニ一家7人がが後ろ手に縛られて、射殺されている写真が載っていました。グラフが大きいし、カメラのフィルムも大きいので撮っていますから、顔のしわまで写っていました。あれをアメリカ兵に見せられた時はびっくりしました。イタリアは市民が怒ってリンチされているのです。家族、女房・子供まで含めてです。あれを見て、肉を食う人種は違うなあと思いました。日本人のお茶や生け花をする人種と違うと、ドキッとしました。
 そして、ドイツのヒットラーはどうなったのですかと、アメリカ兵に聞くと、「ヒットラーは、愛人と一緒に自殺したまではわかっているが、その遺体は見つかっていない」と、通訳を通じて教えてもらったのです。
 それから、天皇の処遇について聞いてみましたら、あの当時、アメリカ兵は天皇のことをゴッドと呼んでいましたが、「日本人にとって、ゴッドは神様みたいなものだから、これはうまく利用しない手はない。」と言ってました。
 肉を針金を刺して巻いて焼いて食べる人間と、お茶とか生け花とする人間を比べると、(戦争の)相手にならないなあと思いました。持ち合わせる図太い根性も違います。
 また、思い出に残っているのは「日本人は、部落と言うのがあり、”エタ”というでしょう。アメリカにはありません。どこの国でもありません。日本だけです。だから、日本の皮革工がダメなのです。それは差別制度があるからです。いいのはドイツの皮革工です。少々の小銃でも弾が通らないのですが、日本の物は差別している部落民(エタ)に造らせているから弱い皮革しかできてこないのです。」といわれた事です。
 アメリカ軍から6ヶ月の間にいろんなことを教えてもらいました。捕虜収容所にいて、ほんとに役に立ちました。その後、屋嘉の収容所にいたことのあるアメリカ領事館の人がうちに会いに来ました。そのうち沖縄にいたことを本にするのだということで、資料を渡しました。57年経っても、そんなことがありました。

(筆者余談)(HPから印刷した久米島の広報をお見せし)この中に議員さんや高齢者の方の名前がいくつかありますが、ご存知の方おられますか。
久米島の知人
 知った人はいませんね。私が久米島で一番仲良くしていたのは、上江洲トシさんで、沖縄県議会議員をしていましたが、今はもう辞めてしまわれました。沖縄の女子師範をでた人で、ひめゆり部隊のトップでした。
 
(筆者)本の中に出ておられる高橋さん(常に渡辺さんと行動をともにした方)は、お元気なんですか
相棒の高橋氏
 彼は、復員しまして、北九州市の税務課長になりましたが、8年ほど前になくなりました。彼はずっと私の相棒でした。私が久米島の捕虜第1号、彼が第2号です。

(筆者)クリ舟で上司の畑中班長以下7名と沖縄を脱出しようとして、それを盗まれて、新たなクリ舟では一旦別れることになったのは何かわけがあったのですか。
沖縄本島脱出直前の離脱について
 それは、後から見つけてきたクリ舟が小さすぎて、5名が限界で、7名ではとても持たないと思ったのです。そうしたほうがどっちも助かると思ったのです。班長以下5名は、でたその朝、米軍につかまったのです。摩文仁で収容されました。その中の一人がG兵長で、沖縄で市議会議員をしていましたが、この人も亡くなりました。このときの仲間で残っているのは、自分ひとりです。

久米島の人たちの心
 (私に)また、久米島に行かれますか。
 久米島の人たちは、ほんとに仏様みたいな人ばかりです。私は最初、久米島には盗人などいないと思いました。なぜなら、久米島の墓には、生前警察の厄介になったひとは入れてもらえないのです。それくらい厳しいおきてがあります。ですから、私たちが久米島に行った時は、警察などは要らないくらいだったのです。日本の兵隊が行ってから堕落させました。
 久米島の人たちは、”ヤマトンチュー”(日本人)が一生懸命に我々のために、助けに来てくれたと思っていました。それが戦争が始まった途端に、暴力はする、気にいらなかったら殺すという具合でした。これに対する恨み辛みは50年や100年では消えませんよ。
 このことをよく考えていかないといけません。むしろ内地の人より進め方は難しいかもしれません。
 裏切られたという気持ちは強いです。日本から守りに来てくれたということで、一生懸命やったのが全部裏目に出たわけですから・・・。

生死の極限
 だけど、日本の兵隊を全部責めるわけにはいかないのです。生きるか死ぬかということになったら、平気で他人のものまで盗って食べるのです。沖縄戦終盤の摩文仁の海岸で、日本兵同士でも負傷していたら、力のないものは盗られました。私は、摩文仁にいなかったのですが、屋嘉の収容所でいろんな兵隊から聞きました。相手が日本の兵隊でさえ気にせず盗る、負傷して物を持っていたら負けでした。
 そんな極限状態に遭って来ています。本に書くのもはばかるのをいっぱい聞きましたが、「逃げる兵」で、あれが精一杯でした。

(筆者)最初に、「逃げる兵ーサンゴ礁の碑ー」(初版)を出されて、続いて「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」(2版)を出されましたが、2冊とも読んでみました。
少し文章の表現や、内容(2版では割愛されている部分がみられた)が違っていましたが、どちらからか指摘されたのですか。


第2版の出版
 初版の、沖縄の慰安婦の件については、ある方面から言われました。それで、はずしました。
 それから、「部落」という文字は使ってくれるなと、出版社に言われました。差別用語と指摘され「集落」としました。「屠殺」という言葉も変えました。
 トラブルがあるといけないから、出版社の言う通りにしました。あれで精一杯です。

 K兵曹長のこと
 話は戻りますが、沖縄ではK兵曹長は鬼だということで呼ばれていますが、もし日本が勝っていたら、あの人は金鵄勲章をもらっているでしょう。Aさんが、あのように投降するように行ったのですが、あれは完全に日本にとっては利敵行為です。当然、掟としてはあれが当たり前なのです。当たり前のことをしてK兵曹長は、鬼のように言われています。
 K兵曹長は、事件が表に出てから、娘さんも大変な目にあったそうです。
 みんな言わば、戦争の犠牲者です。加害者も被害者もみんなです。誰も好んで人を殺すものがいますか・・・。そんなことをみんなに知っていただきたくて本にしたのです。
 
 本を書いた理由
 お前は物好きだと友人に言われました。
 私が命拾いしたのは、国の掟を破って逃亡したからですが、私自身、逃亡したことについては、恥ずかしいことと思ってはいません。というのは、国が戦争責任をはっきりしていないですし、みんな御身大事で避けてとおっています。おかしいですよ。
 フィリッピンでは、一番かわいそうなのは兵隊です。モンテンルパの収容所で、ずっと兵隊並べて、住民にどいつが殺したのだ聞いて、指差された兵隊はその場で銃殺されました。日本の軍隊は、よく言われるはずがないです。いろんな怨念がありますから・・・。フィリッピン人にしてみれば,日本人はみな同じに見えますから、あいつやあいつやということになったのでしょう。それを聞いて愕然としました。まだ、沖縄がその点、ましでした。
 そんな兵隊たちの恨み辛みがいっぱいあります。ほんとに、戦争を通じてのそんな恨み辛みが残っているなら、今の日本がよくなるはずがないです。どうして、日本という国は、戦争責任をはっきりして、申し訳ないところは申し訳ないと有体に謝罪して、諸外国のようにしないのかと思います。しかし、それを言うと国体が崩壊しますが・・・。迂闊には言えませんが・・・。難しい問題です。これが忘れられるのはあと50年かかるのではないですか。
 とにかく、戦争はこんなものだ、こういう事実があったのだということを知ってもらいたいのです。

(筆者)今の北朝鮮の問題も、複雑ですね。教育も民主主義もどこかおかしいとおもいますが・・・

 私もそうおもいます。戦後、民主化と言うことで、アメリカナイズされたが、中途半端です。多数決の原則や、公務員の公僕度、公共の福祉等、どれも、中途半端です。   

(しばらく雑談)

(筆者)長い時間有難うございました。
 最後に、本にサインをいただきたいのですが、よろしくお願いいたします。


会談を終えて、雑談からまた話が・・・

久米島事件の直接当時者の言葉
 この本には、うそは1つもありませんよ。
 久米島事件を発掘した、毎日新聞の大島さんが新聞に書いていますが、関係者のT兵曹長を取材をした時、彼は「自分はどうして、あんなことをしたのだろう。夜中にがばっと目が覚めて、眠れない晩が何度もあった。殺せという命令は天皇の命令だから、兵隊の恨めしさをつくづく思います。」と、言いました。T兵曹長は二十何人、手をかけながら、悔恨の思いを持って生きてきたというのは、これはみな、戦争の犠牲者だからです。かわいそうなものです。ほんとに、「罪を憎んで、人を憎まず」と言うとおり、そういうふうに持っていった国がまず反省してしなければならないと思います。Tさんが話している記録を見て、ほろっとしました。
 Tさんは、奄美大島の出身で、屋嘉の収容所でKaさんと一緒でした。(Kaさんはいま神戸に住んでいます。復員して、関大の夜間部に行って、英語を勉強して自衛隊に入りました。自衛隊学校の英語の教官になりました。そして、何年か前に定年退職して、悠々自適の生活をしています。)Kaさんと、Tさんは屋嘉の幕舎(収容所キャンプ)で、枕を並べていました。Tさんが「どうして、俺はあんなことをしたのだろう。」と、Kaさんに述懐していたと言ってました。みんな戦争では、残虐行為をした人を悪というけれど、人の性は、中にはほんとの性悪もいるけど、全部が全部、悪ではないのです。教育したのが国だから、「自分はお国のためだ」と言って、女子供まで殺してしまうのです。
 だから、戦争の表側ばかりじゃなく、裏側も知っていただいたらいいのです。人間がいる限り、戦争は亡くならないでしょう。その点、アメリカはスマートな戦争をしてました。6ヶ月間、収容所のアメリカの情報部の人たちと生活して、いい勉強になりました。

(筆者)私の父は、3歳で亡くなったため、父の戦争体験を聞けませんでした。父の後、7年後に亡くなった祖父も、父のことは話しませんでした。 

 そうでしょうねえ。
 でも、私は、何とかして、書いておかないと死んだ人がかわいそうだと思いました。私も「自分は逃亡兵だ」と言いたくないけど、書く以上はうそは書けません。ですから、最初から逃亡兵ということで書きました。私には、銃殺刑と言う命令が出ていました。見つけたら理由のいかんに関わらず、撃ち殺せと言うことでした。日本が負けたお陰で助かりました。

  (自分の沖縄で撮ったお祭りの写真をお見せになって)私は、今、こんな写真を撮っているのです。戦後の写真を撮っています。いいでしょう。

(筆者)カメラマンをしておられて、応召されて、戦争中は、写真を撮る機会はありましたか。

 兵隊でいってましたから、そんな仕事は一切できません。高射砲の訓練ばかりでした。私はロボットと同じでした。

小学校で学んだことの思い出
 こんな思い出ですが、小学校の時、進学組に入っていて、先生から世界の国旗の説明がありました。当時5大強国(日、米、英、仏、独)とか、3大強国(日、米、英)とかいってましたが、その先生が国旗の中で、一番いいのは、フランスということでした。3色国旗で、(縦に左から)青、白、赤で、自由、平等,博愛を表すと聞いて、いいなあと思いました。そのときは日本の国旗は日の丸で、真ん中の赤だけでつまらないと思いました。そうして、軍隊に入って、殴られて殴られて、日本には、とても自由、平等、博愛なんてないなあと思っていました。ところが、沖縄で、湾内にアメリカはじめ連合艦隊が入ってきた時に、アメリカの星条旗、イギリスのユニオンジャック、フランスの3色旗を、見つけました。見た瞬間、小学校の先生に言われたその3色旗の意味を思い出し、フランスはいいなあと思いました。日本には、自由も平等も博愛もないので、あんな国にならなければと感じました。と、ちょうどそのとき、(後で渡辺さんらに逃亡の計画を打ち明けた)直属の上官の通信班の畑中班長(軍曹:アメリカの大学を卒業)が、「戦争に負けたら、日本はアメリカ合衆国日本州になるか、フランスのような共和国になる」というのです。私はそれを聞いて、日本の軍隊のひどさから、それをほんとに憧れました。殴って殴って、陛下に尽くせでしょう。私は殴られてほとんど言われたとおりの兵隊になりましたが、逆に、誰が言われたとおりの兵隊になるか、という気持ちもありました。だから、今でも小学校の先生の話を思い出し、同級会でも、話題にしました。ですから、子供のときの教育と言うのは大事ですね。沖縄の高射砲の大地から見た、3色旗が、目に浮かびます。

高射砲団の鶴岡中隊長
当時、こちらからは1発の弾も撃てないのに、向こうからばかり銃砲が飛んでくるのです。攻撃は特攻機だけです。本土の知覧と鹿屋の基地から、飛び立ってくるのです。通信班ですからわかります。「今暁、知覧の基地から60機出すから、間違って攻撃しないように。」と無電が入るのです。私たちは、もう来るかもう来るかと、待っていましたが、大概くるのは、2機か3機でした。明け方か、払暁で、日中は絶対来ません。そのときの知覧の高射砲団の隊長をしていたのが南海ホークスの鶴岡さんです。だから、私と鶴岡さんは、死ぬまで仲が良かったのです。あの時、知覧の高射砲団の中隊長で、毎日特攻機が出るのを見ていたそうです。日本の高射砲がいかに当たらないか、後で話した時、鶴岡さんも知覧でグラマンを高射砲で撃ったけど、当たらなかったと言ってました。

私はカメラマン
 ちょうど10日ほど前に、死んだ杉浦の一周忌がありまして、古い親友と懐かしく話してきました。
 私は、野球殿堂に第1号で入った沢村栄治を写した唯一のカメラマンです。(筆者のあの足を高く上げた写真ですかの問いに)そうそう、あれです。あの当時、カメラはアングルと言う機械で、35ミリではないのです。だから、沢村に、「すまんけど、ちょっと止まっといて」といいました。
 そのときに、その沢村を一生懸命に打ち崩そうと研究したのが、松木謙治郎でした。彼が四番で、それから景浦がいました。その時から、私は写真を写してました。
 カメラマンだったのがいろいろ後で役に立ったのです。タイガースの投手に若林と言うのがいました。彼はハワイの出身です。彼は私が兵隊に行く前に「なべさん、絶対に死ぬなよ。鬼畜米英というのは、あれはうそや。アメリカはそんな国やないやで。」と、いろんなことを教えてくれました。ほかに、「give and take という言葉があるが、与えるから当然報酬を貰えるのだ」という考えなど聞きました。若林とは非常に仲が良かったです。それもこれも、沖縄で敵前逃亡して、捕虜になったのも、下地があったわけです。だから、戦争から帰った時、若林に「あんたのお陰で助かったのだ」と感謝しました。それで、終戦直後のタイガースの全選手のブロマイドを私が写しました。監督が若林でしたから監督の部屋を私の事務所にして使わしてくれました。そういうつながりがありました。だから人間というのは広い視野をもたないといけないですね。
 戦前、スタルヒンなども撮りました。(筆者から、戦前の日米野球の選手なども撮られましたかの問いに)その後ですから、とっていません。でも、松木謙治郎などは遠征でアメリカに何度も行っているから、簡単に捕虜になれたのです。だから、相手の事情を知っていたほうが抵抗がなかったのです。日本は島国だからわからないことが多いです。広い視野をもつことが大事ですね。


(最後に、記念写真をお願いしました。お孫さんに撮影をしていただきました。ポーズは渡辺さんの指示によるもので、さすがに今までとった自分の写真で一番格好が様になっています。【ページ頭参照】)

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久米島事件の現場近く(現在の様子)

イーフ(銭田)の浜をホテルより見る(左)
イーフの浜から少し入ったサトウキビ畑(中・右)

戦後57年経った久米島の名勝地
 
左上:タタミ石(奥武島にあり、直径1〜1.5mの5角形・6角形の岩が数百個敷き詰められている)
右上:比屋定パンダ(久米島の代表的名勝地。東洋一といわれるスカイホリデーリーフが遠望できる)
左下:ミーフガー(昔から、女性の神と知られ、これを拝むとご利益があると言われている)
右下:五枝の松(樹齢約250年の琉球松。高さ5m、県指定の天然記念物)近くに、クメジマボタルが生息。