私の書評・ジャンル:ドキュメント作品ー吉村昭『高熱隧道』新潮文庫(新潮社)

 井波庄川ロータリークラブの2003年秋の旅行で、黒部ルート(関電ルート)に行ってきました。その際、繰り返し、このルートにまつわる難工事や出来事について聞かされました。黒四発電所を作るときの『破砕帯』は、映画『黒部の太陽』(石原裕次郎主演)で知っていましたが、『泡雪崩』や『高熱隧道』は初めて聞きました。大変、ためになる旅行でしたが、これも大勢の人たちの犠牲があってできることと、黒部ダムの慰霊碑には、自然と手を合わさざるを得ませんでした。
 昭和11年、前人未到の黒部峡谷に、ダム・発電所を作っていく過程で、最大級の規模の電力供給(当時)を、軍や国から請われたとはいえ、大自然に生死を顧みず、隧道完成にのみ生きがいを感じた人間の様子が、この本につづられていました。
 発電所建設が決まり、調査や資材の運搬に、『ボッカ』といわれる人夫が、幅60cmほどの絶壁に沿って作られた『日電歩道』を通ったそうだが、写真で見る限り、自分の身体一つがやっとという感じ。
 隧道工事が始まり、掘削開始直後に、高熱の断層・岩盤に当たる。85℃というのに出会い、工事終盤には、最高166℃にまで達した。ちょうど欅平から縦坑エレベーターに乗り、降りてから続いて上部軌道に乗って仙人谷まで行ったが、その途中の熱気は異常であった。寒いはずの11月下旬、アノラックを着込み軌道に乗ってはいたが、次第に暑くなり、そして硫黄の臭いとともに、暑い蒸気で眼鏡が曇ってしまった。カメラで写す余裕もなかった。ダイナマイトの使用制限温度(40℃)をはるかに超えた岩盤の温度、悲しいかな自然発火も起き、犠牲者が多数出た。そのうち、黒部川から冷たい水をくみ上げ、掘削工事に当たる人夫に注水、さらに岩盤にも注水しながら工事を遂行していくが、坑内の温度が70℃近く、水をかけて排水できずたまった腰までつかるお湯も40度を超えるまでになった。従って人夫の労働時間も1日実働1時間、1回20分で交代しながら一日3回(間2時間の休憩)がやっとで、もともと頑健な人間でも、過労で亡くなり人も出たくらい過酷であった。暑くてやっと入れる風呂に腰までつかり、息がやっとのサウナで100℃を超える岩盤に掘削機を当てていることを想像するだけでも気が遠くなる。
 それから、疲れた人夫が休息できる宿舎が、2度も『泡雪崩』にあって、大量の犠牲者(志合谷宿舎84名、阿曾原宿舎28名)を出したこともこの工事の悲惨さを物語る。「泡雪崩」とは、【本注より:異常に発達した雪庇(せっぴ)の傾斜に新雪が降った折に発生するが、一般の底雪崩のように雪塊の落下ではなく、雪崩れる際に、新雪の雪の粒と粒の間の空気を異常なほどに圧縮して落下するものである。そして、突然障害物に激突すると、その圧縮された空気が大爆発を起し、爆風は、音速の3倍毎秒1,000m以上の速さをもつ可能性も生まれる・・・】ということで、鉄筋の志合谷宿舎は、なんとその位置よりも78mも高い山を越え、580m先の大岸壁にそっくり運ばれ打ち付けられたのである。雪解けとともに、その雪崩の全貌が明らかになり、世界的にもごくまれな4-500年に1度あるかないかの事変であったことが判明した。その大岸壁に犠牲者が一人残らず運ばれ、下流に流されたり、その岸壁で見つかったりしたが全員奇跡的に収容されたそうである。自然の驚異をまざまざと見せ付けられた最大の見せ場である。
 四年余の工事期間も終盤に、最大の難所、阿曾原谷と仙人谷を結ぶ軌道隧道も両側からの掘削が交通し、完成となるが、当時の工事技術の水準の高さを示す事柄に、この両側からの目標のずれはわずか、1.7cmの誤差だけだった。
 全編にわたる、現場を指揮する技師と、直接、死と対面しながら現場で働く人夫の複雑な人間関係、これも吉村昭が辛らつに描いている。現代社会では、通用しないと思われる当時の労使の関係もさりげなく出てくるのは、作品が昭和40年にあたため、50年に完成という背景からかもしれない。(山本武夫)